尾池和夫の記録(417)京都の地球科学(370)『氷室』2025年2月
京都の地球科学(三七〇) 2025年2月号 題5行
兵庫県南部地震三〇年(二〉
尾池和夫
岩波書店の『科学』は二〇二五年一月号で特集「震災の教訓は活かされたか 阪神・淡路大震災30年」を組んだ。その目次は、阪神・淡路大震災の教訓をいかに活かすか…室﨑益輝。兵庫県南部地震30年:自然現象と社会現象の観点から…尾池和夫。阪神・淡路大震災後の地震本部の取り組みと活断層防災の課題…鈴木康弘。阪神・淡路大震災の復興過程に学ぶこと…林春男。過去から未来へ?ぐ経験・教訓のバトン・リレー──阪神・淡路大震災から東日本大震災へ…今村文彦・佐藤翔輔・渡邉勇。共感に支えられる災害時のラジオ…大牟田智佐子。災害放送からみた「阪神・淡路大震災」と現在──震災が残した宿題に答えられているか?…入江さやか。災害ボランティア30年の真価…栗田暢之。阪神・淡路大震災の「復興」をどう語り継ぐのか…阪本真由美。阪神・淡路大震災を契機とした都市防災思想の変遷と今後の展望…廣井悠である。
『科学』は一般の方には縁遠い雑誌かもしれないが、今回の特集は多くの方に読んでほしいという内容になった。私は、自然現象の研究者たちの知識と市民の知識との大きな差を、この都市直下型の大規模地震に関しては特に意識してきた。政治家の思惑や経済界の都合で自然現象の研究成果が市民に伝わらないという事実をいくつか経験したことが、私としては貴重な経験となってきた。
一般的に科学者の知識が市民に伝わるには数十年という期間が必要だということはわかっている。しかし、こと大災害に関わる科学の知識については科学者は何とかして早く市民に伝えるべきだと思っている。兵庫県南部地震や、東北地方太平洋沖地震に関する知識は、科学者が伝えようとした知識を政治や経済界が妨害して伝えなかったという例と言っても過言ではない。
夏草や刻をとどめし震災碑 山田弘子
神戸市は一九七二年に「神戸市における地震対策」調査を大阪市立大学の笠間太郎を代表とした研究者に委託し、二年後の一九七四年、その調査報告は『神戸と地震』という冊子にまとめられた。この調査には私も参加した。調査報告には、神戸市周辺地域には活断層が実在し、「将来、都市直下型の大地震が発生する可能性はあり、その時には断層付近で亀裂・変位がおこり、壊滅的な被害を受けることは間違いない」という明快な記述があった。神戸新聞は一九七四年六月に「神戸にも直下地震の恐れ」という見出しで夕刊の一面トップに九段記事を書いた。しかし、この報告書は神戸市長の「なかったことに」という判断で市民に公表されなかった。市長の判断は、将来の空港建設計画などが進まなくなるということからだという理由だったと研究代表者などから説明があった。この報告書は、自治体の報告書に初めて「活断層」という用語が使われたことが特筆すべきことである。
研究成果が政治や経済の都合で市民に伝わらないように妨害される典型的な例の一つとして私の記憶に残っていたが、実際に震災が起こったとき、その報告書を思い出すこととなった。また、当時の神戸新聞の記事を書いた記者は震災の時には編集委員となっていたが、記事のことを忘れていたと、私にコピーを届けてくれた。父上を震災で亡くしたと彼は私に震災の様子を話してくれた。
一九九五年一月一七日のM七・三の大規模地震が起こるまでの、その地域の地震環境を『科学』には簡単に記載し、また、私がエッセイを連載している雑誌『週刊金曜日』にも書いた。歴史資料からは一五九六年の大地震が見つかる。有馬温泉には豊臣秀吉が通った。人生の節目ごとに有馬で湯治を行い、九回有馬を訪れている。慶長三(一五九六)年七月の「慶長伏見地震」によって有馬にも大きな災害があり、温泉の温度が急激に上昇した。この有馬温泉と大地震の関係はよく知られているにもかかわらず、神戸には大地震がないという間違った伝説を、なぜか神戸の人たちは信じていた。
大規模地震の前には群発地震や鳴動などがあったという記録が史料に出てくる。例えば京都の大地震の前の「将軍塚鳴動」の記録などが知られている。有馬鳴動あるいは六甲山鳴動と言われるのは、一八九九(明治三二)年七月五日から約一年に渡って有馬温泉を中心とする六甲山周辺で続いた群発地震である。有馬温泉の湧出量が増加し、温泉の温度が上昇、温泉水が農地に流れ込んだため作物に鉱毒被害をもたらした。今村明恒が文部省より命ぜられて原因調査のために派遣され、大森房吉も派遣された。
一九一六(大正五)年一一月二六日一五時八分、M六・一の地震が明石海峡東部海域に発生した。淡路島北部、明石、神戸に被害が発生した。南海トラフの巨大地震の前五〇年から後一〇年程度は、それ以外の期間に比べて西南日本での被害地震が多く、地震活動期と呼ばれている。一九一六年の地震は前回の地震活動期に発生した地震で、一九四四年、一九四六年の南海トラフの巨大地震発生によって内陸部の応力が減少し、明石海峡での起震応力が一度小さくなった。それが数十年かけて回復して来た段階で、一九九五年兵庫県南部地震の直前の前震と本震が発生したと考えることができる。最初の前震と本震の間隔が八〇年程度と長いことも理解できる。M五クラスの三個の地震も明石海峡に近い場所に、やはり前回の活動期中に起こっていた。
菜の花や月は東に日は西に 蕪村