尾池和夫の記録(418)京都の地球科学(371)『氷室』2025年3月
京都の地球科学(三七一) 2025年3月号 題5行
中国海城地震から五〇年
尾池和夫
一九七五年二月四日、中国遼寧省にマグニチュード(M)七・三の大地震が発生した。この地震に際しては、世界で初めての、系統的かつ組織的な地震予報が段階的に出された。地震の予報に成功して震災を大きく軽減するという歴史的な出来事であった。日本でも地震の直前予知は人類の夢であるとして研究されてきた。それが成功したというので私も注目してさまざまな面から中国での地震予報の成功例を調査した。また、翌年一九七六には、中国の唐山地震で、直前予報が出されないまま、二〇世紀の世界最大の震災となる出来事があり、その失敗と比較して研究することが、今もっとも重要なことであるという認識のもとに、歴史を振り返っておきたいと思っている。。
一九七四年に私は初めて中国を訪問した。中国科学院が日本の地震予知研究の現状を知りたいというので三人の地震学者を招いてくれた。人選を頼まれた私は団長に東京大学理学部の浅田敏氏をお願いし、名古屋大学の志知龍一氏に地殻変動の分野を代表する研究者として参加してもらった。
一九七二(昭和四七)年九月二五日、戦後の現職総理大臣として初めて田中角栄総理が北京を訪問し、大平正芳外務大臣らとともに中華人民共和国の周恩来国務院総理、姫鵬飛外交部長らと、国交正常化に関する協議を行った。数回の首脳間の会談を経て九月二九日、人民大会堂で日中共同声明が署名された。
この日中共同声明において言及された平和友好条約は、一九七八(昭和五三)年八月一二日、北京において日本側園田直外務大臣、中国側黄華外交部長によって署名され、一〇月二三日に発効した。この条約締結によって両国間の平和友好関係を一層発展させるための基礎が築かれた。一九七八年一〇月二五日、鄧小平中国国務院副総理夫妻が訪日した。中国の国家指導者として戦後初の訪日であった。彼は、日産自動車、松下電器を見学し、新幹線に乗車し、「近代化とは何かがわかった」と言った。そして帰国後「改革開放」が始まった。海城地震と唐山地震はそのような時期に起こった地震であった。
私が始めて中国に行ったときは、日中国交回復の直後で、まだ直行便はなく、香港経由で北京へ移動した。科学院で講演したり、研究者たちと議論したり、北京ダックの飼育場を見学してご馳走になったりした後、北京から南へ移動して?台(シンタイ)市を訪問した。?台市は河北省の地級市である。清代には順徳府が置かれ、一九一二年には大名道が作られたという交通の要衝である。河北省南部に位置し、石家荘市、衡水市、邯鄲市、山東省、山西省と接している。
北京ダックまでは前菜花氷 黄土眠兎
?台市の見学をして、私たちはとても驚いた。そこには地震予報のための専門の観測所があり、地域の観測網から得られるさまざまなデータを一枚のグラフ用紙に記入していて、多くのデータに通常とは異なる変化が集中的に現れたときに住民に地震予報を公表していたのである。しかもそれがかなりの率で成功していた。予報の対象になった地震は一九六六年ごろの大地震の余震であり、地震の起こる場所は限定されている場合である。私たちは本当に驚き、浅田団長としばらく顔を見合わせた。 余震よと立ち上がりたる松露? 茨木和生
その後、一九七五年初めから私は南米のペルーとチリに調査に出かけていたが、その最中に中国で大地震が起こって、しかもその予知に成功したらしいというニュースに触れた。帰国して日本国際貿易促進協会の方から遼寧省でその地震を体験したときの話を聞いた。ホテルにいて大きく揺れた。聞くと地震予報で人びとが避難していたことがわかったという。
その年、日本地震学会から中国の地震予知の専門家を招いて日本で報告をしてもらい、専門家たちから地震予知成功の経過をくわしく聞くことができた。その記録は地震学会の報告書としてまとめられている。
海城地震はM七・三で、長い歴史のある中国であっても、記録が残る遼寧省の地震の中では最大規模であった。震央は海城県(現在は海城市)の中心部から南東へ二〇キロにある村、岔溝鎮付近、震源の深さは一二キロであった。震度(中国では地震烈度)分布では、震央付近の幅二〇から三〇キロ、面積にして約七六〇平方キロの範囲で、この地震最大の烈度Ⅸとなった。鞍山市や営口市中心部付近で烈度Ⅶであった。
海城県では、住宅のうち四六%が甚大な被害、三二%が大規模な修理を要する被害を受けた。営口市でも、一三%が建て替え、二六%が大規模修理となった。人的被害は不明であるが、新華社報道では死者は被災地の人口の〇・〇二%にあたる二〇四一人であった。
地震予報の成功で、海城地震による人的被害は大きく軽減されたと考えられる。『一九七五年海城地震』(地震出版社)では、予知のなかった場合、死傷者が一五万人と予測されたという。この軽減効果には、前日から当日にかけての有感の前震活動の急増で、住民が地震を恐れて自主的に避難する動きがあったのも含まれている。
その頃の中国の基本方針では、地震予報は長期、中期、短期、臨震の四段階で行うとされていた。まず長期予報であるが、大規模地震の東北への移動現象があり、専門家の間ではその現象が長期予報の段階の重要な判断材料となっていた。さらに中期予報には遼寧省の地震活動度の高まりが注目された。この段階では工場の補強などが組織の幹部などへの指示で実行された。