京都の地球科学(三七五) 2025年7月号 題5行
中国海城地震から五〇年〈五〉
尾池和夫
営口市営口県官屯人民公社の石硼峪地震大隊は、三日間続いた小地震発生を監視していたが、その活動が急に静かになった時、いよいよ大地震が近いと考えていた。上からの指令をもとに、準備されていた予防処置を取った。大衆を広場に集め、夕方から映画を上映した。
虎庄公社の郵便電話支局の交換手たちは、緊急連絡の電話を次々と取次いでいた。交換器の横には、自分たちが工夫して観測を続けてきた地電流測定用のメータと記録ノートが置いてあった。大地震は近い。交換手たちは自分は危険をおかしても、人々には安全を、と争って当直の仕事を要求した。
営口市西市区向陽公社でも、抗震防震指揮部が出来ていた。破壊的大地震の時には日常の組織ではなにも出来ない。地震弁公室(事務室のこと)が中心となって、指揮部を組織し、補強工事を進め、交通・電力・通信・物資の調達などについてこまかく防災対策が練ってあった。警報はどのようにして出すかを住民の一人一人に教えてあった。警報は最初警報器とスピーカーで流し、その後市の広報車でも知らせて回った。
四日午前中、区の革命委員会(この時代の中国で区役所に相当する組織)が区・公社・街の各委員会を同時に召集して緊急会議を開いた。向陽公社の陽光街では、午後三時、革命委員会の指令で三八人からなる救急隊を出動させて、一軒一軒を点検した。各家族に対して、「今夜はふとんに入るな。服をつけ、防寒具を用意し、避難の警報が出たら電気を消し、火を消して、避難場所へ集まるよう」指示した。前もって、何回か行なった避難訓練で、警報を鳴らして避難するまで、早い人は八秒、遅くて一分ということがわかっていた。避難する時はあわてて子どもを忘れないよう、夫は老人を、妻は子どもをというように分担をきめておくよう、細かく注意して回った。

海城地震による地割れ
この頃、遼寧省地震弁公室・地震大隊の専門家たちは、さらに真剣にデータを分析していた。二月初めの遼寧省南部は夜間の気温は、セッシ氷点下二〇度にもなる。夜中に屋外に避難させたままでは、大地震が起らなくても凍死者が出ることはわかっている。防災指令はすでに出された。だが大地震が本当にいつ発生するのか、もう一つ、それを見きわめる決め手のデータがなかった。大地震は必ず、この営口・海城地区に起る。しかしそれは次の瞬間かもしれない。一週間あとになるかもしれない。救いは、前もって実行された防災計画のおかげで、比較的避難小屋などの設備がよく出来ており、各地での避難活動がスムーズに実行されていることだった。もし決め手になる現象が観測されたらすぐ最後のサイレンを鳴らして知らせることになっていた。
石硼峪地震大隊は四本の映画を用意した。その二本目を上映している最中、午後七時三六分○六秒大地震が発生した。マグニチュード七・三の破壊的大地震だった。石硼俗では九○%の家屋が倒壊し、三人の死者を出した。いったん避難したが予報を信じず、夜になってまた子どもを連れて家に帰ってしまった老人と子どもだった。海城県牌楼公社丁家溝大隊は震央地区のどまん中にあった。地鳴りや発光現象があり、地面は上ったり下ったり、小舟に乗って荒海にいるような気持だった。八○%の家が崩壊し、六〇〇畝(一畝は約六、六アール)のだんだん畑のうち四○○畝が崩れた。九か所の貯水池は、すべてさけて水が流れた。しかし臨震警報の効果で、死者はなく家畜も無事だった。
タルク(滑石)の露天掘りの現場の数十メートル上の山腹に、地震による地割れが出現し、岩がくずれ落ちた。マグネサイト鉱山区の一万人の人々はがんこな老婆一人を除いてみな生命を守ることができた。

遼寧省の地震予知を指揮した朱鳳鳴氏

地質102隊の観測装置
机の上には地電流観測のメータ
地質一〇二大隊の一〇〇〇人以上の住民にも死者はなかった。虎庄郵便電話支局の交換手呉春霞さんや解さんたちは、地鳴りや発光現象にも恐れることなく交換の仕事を続けていた。大地震で壁がくずれ、解さんはその下敷きになった。李支局長が彼女を救出した時、彼女は「交換機は、交換の仕事はどうなってるの?」と叫んだ。公社の建物のほとんどが倒壊したが、人命はほとんど皆助けることができた。
陽光街でも死者は一人も出さなかった。地鳴りや発光現象があり、道も建物も皆大きな波のようにゆれた。建物は破壊され地面にはき裂が入り、河床地には水や砂が噴出した。この地区では老人、病人などを安全な場所へ移し、多くの人々は最後のサイレンを待って待機していた。七七歳のおばあさんと七九歳のおじいさんの二人が隣に住む李さんの家では、子どもを人にあずけてのち、直前にこの老人たちを助けて避難した。夫が入院中の王さんの家では、妻と四人の子どもたちがいた。彼らはあらかじめ、一番上の子は二、三番目の子どもの世話を、母は末子の世話をするよう指導されていた。また、避難路がせまく長いので、万一逃げ遅れたら西側のコンクリート壁にくっついているよう教えられていた。大地震の時、上の三人の子どもたちは避難して無事だったが、自分の家は全壊するのを見た。彼らは、「お母さんが下じきに!」と叫んだ。救助隊が行ってみると、母親と小さな子どもは、いわれた通りコンクリート壁の横から出てきて「だいじょうぶだよ」といった。
地震発生後の復旧処置も周到な用意のもとに手ぎわよく実行された。マグネサイトの鉱山では七口から生産を再開、二月末には、元々の生産目標に追いついた。陽光街は震央地区からやや離れていて救助隊は地震の翌日到着したが、その時仮設住宅がもう住民たちによって建てはじめられていた。国家の対応も早く、地震発生後一時間で震央地区の状況を把握し、政府と党は人民解放軍と各省へ救済指令を出した。前もって練られた計画と訓練の効果は大きかった。待機中の専門技術者の仕事で、電話は大地震の一時間後に、電力は五~六時間後に回復した。
地震予報の専門家たちは、大地震直後もデータを監視分析し続けていた。二月五日、六日頃にも余震に対する予報を出した。さらに別の大地震が離れた地区に誘発される可能性もある。省都の瀋陽では、震央からわりあい離れているので今回の地震ではあまり危険はなかったが、住民は不安がって家に入ろうとしないことがあった。海城地震の四ヵ月後、瀋陽地震台の専門家はこの地域には大地震の可能性は少ないという結論を報告した。省革命委員会は、この結論を重要視して、生産や生活を安心して発展させるように、との通達を出した。
牌楼人民公社丁家溝大隊の副隊長の孫さんは、大地震の翌日から建設が始められ、今は立派に再建された村を案内してくれた。彼女は人工平野の造成や、農業の機械化について熱っぽく語った。 史上まれに見る大収穫を収めた村を見下ろしながら、彼女は、この村の主生産品のリンゴのように頬を赤くかがやかせていた。
虎庄公社の郵便電話支局の呉春霞さんは、今でも当時のまま保存されている交換室の前で、大地震の時の様子を話してくれた。「春から新しい交換手も入ってきました。私たちは手をたずさえて、 今でも地震予報のための仕事は一日もかかさず続けています」といってにっこり笑った。交換台ターと観測ノートがあり、定時観測の値がきれいに記入されていた。
寒月や海城地震五十年 尾池和夫

左:安啓元中国国家地局副局長、中:呉春霞氏、右:李永平虎庄郵奠支局長

地震に備えて工場に置かれた「安全島」

予報に基づいて行われた補強
ここまで、私の著書である『中国の地震予知』からほとんどそのまま引用した。この本は、京都大学リポジトリーに収められており、いつでも読むことができる。また、中国の人々も五〇年前のことを知らない人が増えており、中国社会出版社はこの本を全面的に中国語に翻訳して『中国的地震預報』として出版してくれた。
海城地震の一年半後、海城地震から約二〇〇キロメートルの唐山市付近を震源として発生した唐山地震では臨震警報が出されなかった。二四万人を超える死者が出て、地震予知が困難なことが中国を含めて世界で広く認識されるようになった。しかし、唐山地震についても短期予報があり、専門家たちは地震当日も唐山のホテルにいて全員死亡した。地震が間もなく発生するという認識があったと私は思っている。その直前、唐山には激しく雨が降った。その雨が破砕帯を刺激して早めに地震を起こしてしまったのではないかと私は考えている。
唐山市の死者は市民の二一・二%に達し、住宅の全壊率は九四%だった。再建が一段落するまでの約一〇年間、外国人の立ち入りが制限された。その後、抗震記念館が置かれ、倒壊した建物や断層の一部が「地震遺跡」として保存されている。
日本では九五年の阪神淡路大震災の後、地震予知研究への批判が集中して、地震学者たちが地震予知の研究から離れてしまった。しかし、地震予知の実現は人びとの悲願である。実現するためには地道な研究が必要であるが、取り組む若い研究者が今は少ない。地震予知の研究のあり方については、機会をあらためて考えてみたい。
今年、二〇二五年七月、遼寧省では海城地震五〇周年を記念して地震予知研究の国際会議が開催される。日本からは日本地震予知学会の会長である長尾年恭氏が招待されている。
どこまでの地震割れの道寒雀 友岡子郷