ピンポン外交 | 2025 中学受験に向けて

2025 中学受験に向けて

2024年1月現在・小学5年生の娘の中学受験までの学習、活動などを綴っていきたいと思います。SAPIX には新2年生から通塾中。

いよいよ明日マンスリー。

塾休み期間はよく勉強しました。
しかし、だいぶ算数に傾倒していたので理科がまずい。理科は終わりました・・。
社会はほとんどやってなかったのですが、算数の息抜き程度にテキストを進めるなどし、昨日・今日である程度整理しました。
国語は息抜きに言葉ナビを読ませただけ。
負荷の大きい算数、理科をガッツリ頑張るためには、息抜きするために、適度に文系科目を挟まなければならないのです・・。
さて、どうなることやら。




You Tube は再生履歴がカオスなのでいろんな動画が上がってきます。
最近、すごい動画が上がってきました。

1960年台の卓球です。こんな動画が見られるとは。


対戦しているのは、60年代に2度世界チャンピオンになった荘則棟、そして50年代に2度世界チャンピオンになった荻村伊智朗さん。
荻村さんは団体、ダブルスなど50年代の世界タイトルを席巻しました。

ちなみに、卓球がオリンピックの正式種目になったのは1988年、ソウルオリンピックです。
日本が世界チャンピオンを輩出していたのは、50年代、70年代が多いのですが、80年代−90年代は成績が下降していきますが、昔は強かったんです!
水谷はリオでシングルスでもメダルをとったのが男子初のメダルと言われ、東京オリンピックで水谷隼、伊藤美誠の混合ダブルスが金メダルを取りましたが、オリンピックでのメダルは事実であるものの世界タイトルは遥か昔にたくさんとっていたわけです。

ちなみに、中国の卓球は昔から強かったわけではなく、60年代、80年代の前半に強かっただけ。
70年代はハンガリーと日本、80年代から90年代前半はスウェーデンが強かったです。(中国はそこそこ)
90年代終盤に中国から久々の世界チャンピオンが登場、オリンピックも金メダルを取り、21世紀は圧倒的な強さを見せつけていますけどね。


話が戻りますが、
60年代といえばまだ日本は中国と国交を結んでいません。
そういう時代の映像です。
その後、中ソの対立もあって中国は71年まで世界選手権に出ていなかったのですが、荻村さんが周恩来にピンポン外交を提案したことから中国の代表選手が大会に出場。



    

1970年9月末、日中文化交流協会代表団の一員として周恩来に招待された荻村伊智朗は、ピンポン外交を提案した[6]。また1971年にはロイ・エバンズ国際卓球連盟会長も欧米の選手を中国に招くことを周恩来に提案した[7]

1971年、中華人民共和国は同年3月28日から4月7日まで日本で開催される第31回世界卓球選手権への参加を表明。毛沢東が参加を承認し、1961年から1965年まで3大会連続で団体優勝し、1965年の第28回世界卓球選手権では個人団体7種目中、5種目で優勝した後、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中華人民共和国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った[8]


その後、アメリカ選手と中国選手の交流などをきっかけにニクソン大統領が1972年に訪中。

同年、田中角栄の日中共同声明にも繋がり、国交正常化につながっていくことになります。


中華人民共和国が中華民国(台湾)との正当性を争っていた時期ですので、それが正しい判断なのかはわかりません。

しかし、それはその後の中国の覇権を知っている人間だからこその考えなのでしょう。



豆知識:

当時の荻村さんのラケットは、木ベラにスポンジを貼ったもの。

回転のかかる高弾性ゴムのラバーが開発され、ドライブなどの技術が生まれたのは70年代です。

荘則棟選手は薄いゴムにイボイボがついたようなラバーを貼っていると思われます。




79年日本人男子最後の世界チャンピオン



06年リオオリンピック この試合のラリーは最高すぎました。



97年世界選手権

その後の技術の進化は著しいけれど、現代の最強の中国選手でもこの時のワルドナーにはボコられると思う。

攻撃は相手がいないところへ、全ての攻撃はカウンターブロックでシャットアウトされる。

まるで未来を見てきたような、どこにボールが飛んでくるかわかっているような、そういう異次元のプレーで誰1人まともに勝負にならず。