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5年生前半になって成績下降気味です。
算数が足を引っ張り、理科も悪い。
一方、去年イマイチだと思っていた社会が少し上昇機運にあります。
国語はSOがダメだったがそれ以外はそれなりに得点源。ただ突き抜けるほどでもないので漢字・語彙などの基礎知識は不安あり。
今日も学園祭で歩き回って疲れました・・。
ただ、今日は勉強させますよ。
そして、娘は自分が作った計画ノートを見ながらその範囲をやろうとしています。
時間が来たら部屋に引っ込んで休憩し、しばらくしたら自分で戻ってきて勉強を再開した。
その調子でどこまで頑張れるかな。。歌いながら勉強するの辞めて欲しいけど
さて、一気に勉強の難易度が上がると言われる5年生後半、6年生に向かってどのような成績になっていくのでしょうか。。
これ以上下がったら嫌だなーと思いつつ、成績は成績として、実力は実力として受け止めていけばいいかと思っています。
前の記事にも書きましたが、管理に重きを置いているところを少しずつ自走モードにシフトしていくところはありますが、基本方針は変わらず。
・受験を自分ごととして自走できる余地を伸ばしたい
・親子関係を破綻させない
・目標達成のために必要な適度なテンションはかけていく
描いていた理想と違う結果になろうとも、それが娘の実力。
できるところまでは頑張る、結果は受け止める、それだけです。
スポーツに置き換えてみると、100m走で12秒をきって欲しいと親が願っても、トレーニングで誰もがその域に達することはないと思います。
13秒台、14秒台は努力次第でありえるかもしれません(それも無理な人はいるでしょう)。
自分の娘の実力値がどのあたりに着地するのか、正直いって見えていません。
ただ、100mに例えると、11秒とか10秒で走れる子ではないと思います。
13秒か、15秒か、どれだけ頑張ってもそれ以下の平凡・鈍足タイムかもしれません。
しかし、本人の意思がない状態では高いハードルを超える負荷に耐えるのは無理。
だから、親の意向よりも本人の意欲を育てることが何より優先されなければならないと思います。
勉強においても、より高いハードルを超えるには、それまでの自分のやり方を変えてでも結果にこだわることが必要。
例えば、人のアドバイスを聞き入れないのではなくて、取り入れてみる。
繰り返し発生しているミスが問題だと認識し、同じミスを再現しないためにどうすべきか徹底して改善するなど。
むしろ、そういった意識づけが全てなのではないかと思いますし、強く叱ろうが、叱られるのが嫌だと感じようが、変わる気がない子には暖簾に腕押しです。
精神年齢が理由で、変わらないのであればそれまでだと思います。
自律していけるならば、持っている能力の上限までは伸ばしていける可能性があるでしょう。
この点において、
11秒で走れる子を羨ましいと思うことはないし、
12秒で走れないことを嘆くこともないし、
17秒台だったとしても、十分に努力したならそれでよし、と思います。
(# そんなものしかできないのか、ということは言わない。)
ウサイン・ボルトと同じ努力をしても、みんながボルトのようにはなれません。
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結局、身体能力の違いによってどれだけ頑張っても早く走れない子はいます。
才能ってそういうものだと思うので。
才能がないことを必要以上に嘆く必要もないと思うのです。
自分が見てきたスポーツ選手、全国レベルの大会でそれなりに結果を出していても、
「体が小さいなりにやれることをやるしかない」
「下手は下手なりにできることをやるしかない」という考え方をしています。
そのスポーツの範囲内においても、他人に勝てないところで勝負するのではなくて、自分と向き合って強みを探し・伸ばしていく。
頂点に立てるのは一人、勝負の世界ではそれ以外の人はみんな「負ける」という経験をしています。
「負ける経験」を通して、それぞれの才能と努力に応じた着地点を受け入れ、そこまでの努力を認める、肯定するということを学びます。
目標を達成しなかったとしても、その子が頑張っていることを知っていたら、誰もその努力を否定しないですよね。
だから、たいていの親は子供が1回戦負けだろうが、予選落ちだろうが、
一生懸命やっていたら褒めるだけだと思うし、
才能がないことを嘆くことはないと思うのです。
(口先ばかりでやることやってなかったら叱るか呆れるでしょうが・・・)
やがて、そのスポーツで限界があると感じたら、勉強で限界があると感じたら、それ以外の分野での生き方を模索すればいいわけで。
基本的に、勉強する能力や頭の良さについても同じだと思うのです。
才能と努力に応じた結果の違いは必ず生まれます。
それに応じた居場所(進学先、就職先など)も異なるでしょう。
でも、
輝かしい才能をすごいなと思うことはあっても、
そういう人に及ばないことを悲観する必要もないと思います。
WBCで大谷翔平選手に間近に接し、
彼に全く及ばないことを悟ったプロ野球選手、野球が嫌になって辞めました?才能のなさに絶望した?逆だと思います。
圧倒的な力の差に驚嘆・尊敬しつつ、少しでも自分にモノにできるところは取り入れようとした。
・・ところが、子供の勉強の能力においては、絶望とか諦めのような感情だけが出てませんかね。
求めるレベルに達しない投資や努力は無意味なのでしょうか。
目標には地頭の差があるから届かないとしたら、程々の努力と投資にするのが良いのでしょうか。
・・・見極めは必要な段階はあると思いますが。
スポーツと勉強の違いは、1位以外の人に「負け」という感覚があまりないことから、「負け」から得られる学びがない。
*テストで1位にこだわったのに2位以下の成績を取ってしまった人にはあるかもしれませんが。
さらに、テストでは全員に順位や偏差値がついてしまうことから、必要以上の劣等感を持ってしまう点が問題。(特に保護者に対して。)
ここが受験勉強の過酷なところだと思います。
ただ、スポーツとの違いを認識しておけば、気持ちの面では対処のしようもあると思います。
キリスト教教育の教えで、タラント (Talent) の例えがあります。
JGの説明会で紹介された話です。
一人一人と向き合って、自分の得意なことを見つけ、生きる道を見つけていくということですね。
神様から預かったものは人それぞれ違う
自分に与えられたものをどう使うか
失敗するかもしれない
見つからないかもしれない
Talent とはそれぞれに与えられているもの
他より優れているわけではない
勉強において、全教科優れている人もいれば、特定の教科だけ強い人もいる。
勉強はダメだけど、他で得意なことがある人もいる。
収入だけにフォーカスしても、高学歴低収入な人もいれば、高卒、専門卒でも高年収の人だっています。
学生時代に勉強がさっぱりだったとしても、何らかの分野で秀でて尊敬される人もいます。
子供の頃にその芽を摘み取ったり、勉強における才覚だけで残念な子だとみなすのも違うと思います。