「わたし」という起点から世界を描かず

目の前の「現実」のデータに集中する

ある現実が目の前で展開する時に、
「わたしが、その時どうしたか」
「わたしが、その時どう思ったか」
「わたしは、どんな風に言動したか」等々
「わたしが何をして、何を思ったか」は
「自我意識の観察」になります。

必要な「観察データ」は「事象・出来事」
と「事象に対する体験者の反応」です。
現実の「出来事・事象」を捉える観点と
「体験者わたし」という自我システム内で
起こっている二元構造の様々な反応を
捉える観点、少なくともこの2つの観点を
同時に使うのが「観察者」です。

「反応している体験者の感覚」と完全に

切り離された「観察者の観点」を持つ。

 

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~★ありえないを超えてゆく★~
 
例えばA先輩に「これをここに置いたのは
あなたなの?」と問われた時、
「そこに置くよう指示されたので」と答えた
という「出来事データ」があるとします。

その「出来事・事象」に対する体験者の
「わたしの反応」は、質問を受けた瞬間
心中で「そこに置いたら何かまずかったの
だろうか。そこに置くように指示したのは
Bさんであって、わたしの意思ではない。」
という思考が出張ってきて、

「あなたが置いたのか」という
「はい・いいえ」で答えられる問いに対し、
「はい、そうです」と明言せずに、
「指示された」と、質問に対して
「不一致な返答」をしています。

「出来事・事象」と「体験者の反応」の
「観察データ」が揃った時、もしここで
「自我意識の観察」をすると、
「自分のせいではない、という想いから
保身に走って、はいと言えなかった」
という観察になります。

「わたしが何を想い、何を考え、それに基づき
何をしたか」というのは、自我システムの
「わたし物語の主人公の観点」です。
その主人公が、その物語の中で、
なぜそのような行動をとったかは、
「わたし物語から解脱する」創造には
全く必要のない情報です。

なぜなら「主人公を発動するシステム」
そのものを解除するからです。
「主人公に配慮した物語を創る」とか
「主人公が心地よい反応が出来る物語を…」
等々のように、「主人公わたし」が
心地よく「陶酔出来る」新しい物語を
創造するのではなく、「主人公わたし」を
創っているシステムを解除するのです。

主人公の想いの情報が必要なのは
「わたし物語」を真実として生きる決定を
している人、即ち「自我システムの中で
生きる」事、「わたし物語の主人公の
わたしで生きる」事を決定している場合。
すると「主人公のこの想いをわかって」
「こう考えた主人公の気持ちを汲んで」
という構造に流れていきます。

解脱は、「わたし物語の主人公」として
物語に翻弄される体験を生きる事や、
その物語を創造する二元構造の
「自我システム」を解除する創造です。
なので、主人公「わたし」の反応を軸に、
全ての言動を決定するルートから
「解脱するルートの開拓」を目的とした
「観察」を行っていきます。

治療している時、「痛い痛い」となっても
「ちょっと我慢してね~」と云われるように
「最善最良へのプロセス中」は、変化に
追いついていない「わたし」に、何らかの
反応が出るのは当然です。しかしここで
治療者が「痛いなら、やめようか」と
治療を停止していては悪化の一途です。

「わたしのこんな苦しい想いをわかって。
そしてわたしが心地よくなるよう、全員
気を付けて振舞ってね」を通す限り、
自我システムを超えることは不可能です。
疼く様々な反応を受容して手離し、
「わかっている。だから、その苦しみを
創るシステム解除に向かっている」と
未知なる道の開拓へフォーカスします。

「ある共通事実」を、勝手に
「主人公のわたし軸」へ変更している
「歪みポイント」を捉えて、その歪みを
導いている「意識の創造構造」を明かし
その歪みを創らないルートを決定します。

「そこにそれを置いたのはわたし」という
事実に対して、「ここに置くよう指示した
のはBさんである」と反応する現在地は
「Bさんの手足になっている」位置です。
「Bさんの決定に従い、Bさんの代わりに
行動する=主従関係の従者のわたし
=被支配者」の位置にある。

「外に創造軸がある=外軸」状態は、
「創造主を放棄し、他者に全てを
代行してもらっている」状態ですので、
「Bさんの指示に従っただけなんで、
責任はBさんにあります」観点になる。
この観点は、目の前の現実に対して、
「そうなったのは、わたしのせいじゃないし」
と「我関せず=無関心」なスタンスで
何事も他人事のように捉えがちです。

こうした「わたし物語の主人公だけ」を
生きようとする孤独を解脱するには、
「創造主の観点の」起動が必要です。
それには常に「言動の最終決定権」を
持つ者は自分、という認識に立つ事。
「ここに置くよう指示したのはBさんだが、
それに同意し、ここに置く事を決定し、
そのように行動したのは、わたし」です。

「決定」に至るまで、いかなるプロセスが
存在しようとも、それを「する・しない」は
自らで選択決定が出来ます。なので、
誰に助言された、誰に提案された、
誰に指示された、誰に命令された等々、
「決定までのプロセス」は全て無関係。

「全てを踏まえて、どうするか」を
創造主として「わたし」が決定し行った
「果」が具現化されているのです。
以上から、観点が歪むポイントには
「創造主の観点の不在」があると解る。

なので、いかなる瞬間も、「ある決定と、
それに伴う言動の責を持つ」自覚的な
意識の観点に立つよう心掛け、実行します。
それには「共通事実」への
「自我意識の反応を全て省いて」、
「シンプル・素直・真っ直ぐ」に
言動を組み立てるようにします。

「これをここに置いたのは、あなたなの?」
「はい、そうです」
「そう。どうしてここに置こうと思ったの?」
「ここに置くよう指示があったからですが、
配置換えのご指摘を受けたおかげで、
ここに置けば、より〇になると気づき、
わたしもその方がよいと感じ置きました。」

いかなる「自我の想い」が渦巻いても、
全ての「決定」の責は自らにあります。
「創造主の観点」は、主体的・自発的で
何一つ「誰のせいにもならない位置」に
立っている時のみ発動します。ここへ意識の
存在値を先導する観察者になること。

「わたしは、そうしたくなかった」が
 
仕事で指示されたらやるしかない、
 
という位置は、依存的な従者の位置です。

「いや、わたしは色んな提案をするが、

悉くワンマン社長が却下する」という観点も

その会社で働く事を選び決定しているのは

「わたし」だという事が盲目状態です。
 
「誰かががこうだから~出来ない」とか
 
「何かがこうだから~出来ない」等々は
 
依存的位置からしか創れない言葉です。
 
こうするしか「仕方ない」全てを、
 
「仕方ない事」にしている自分がいるだけで

いつだって「決定」を変える事は出来ます。

しかしそうしないのは、それをする以上に

具現化したい「別事」があるからです。

「転職して給料が下がりたくない」とか

「今さらもう、頑張りたくないし」とか、
 
「そうしたら~と思われてしまう」とか、

「これ以上面倒な事をしたくない」等々、

「開拓プロセス」より「不変の今」を

決定しているのです。「いや、わたしは

出来る範囲で、変わろうとしている」と

思うでしょうが「出来る範囲」とは、

「わたしをとりまく環境が変わる事や、

わたしへの対応を変える事などを、

周囲へ歎願するような範囲」であって、

「わたしが、わたしの決定を変える」事や

「わたしが、わたしの観点を変える」事や

「わたしが、わたしの意識を変える」事、

等々は度外視されていたりするのです。

「創造主」の観点に立っているならば、

他者や周囲を動かしたり、物申す事がなくなり、

周囲がそれをしてもしなくても

周囲がそれを認めても認めなくても

一切「無関係に」わたしが率先して動きます。

「云われた通りしただけ」「信じてたのに」

「立場上そうするしかないじゃないか」等々、

依存的従者の観点を手離し、

「云われた通りにしようと決めた」

「わたしが信じると決めて、信じた」

「立場上そうすると決めた」等々のように

「創造の軸」を自分で持つようにします。

「自我にとって良い果」だけを受けようとする

二元構造の「利得を貪る欲」があると

創造主は起動しない。全ては巡り還り。

「幾度も學び、最後に気づく」のが

霊性プロセスです。つまり、失敗したり

間違ったり、上手くいかないような

上り坂の道を継続して歩いていくと、

ある瞬間、見晴らしの良い高台に到着して

やっと「一つ気づき」を得るのです。

「たった一つの気づき」は「全」を持ち、

意識次元を底上げします。そこへ行くには

「陰陽が混在しながら巡り還る果」と

共存協働し、常に新しい未知なる道を
 
開拓し続けながら歩むこと。全ての体験を

プロセスに還す「創造主」を目指して―。

 

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