真なる「出来る」とは「無意識」への移行

「出来たか否か」に意があるは未熟の最中

昔、例えば「自我最後尾」などの実践で
「前よりは、出来ているよね?」とか、
「三日坊主を超えたから、この調子だと、
この状態を維持出来る可能性がある」等々
自己承認的な事を宣っていると、決まって
ガイドは「本末転倒にならないように」と、
たしなめるように云ってくれたものです。

訊き返すと、「そこに意識があるうちは、
それを成すは出来ないでしょうね」と云う。
「どういう事?」と思ったものですが、二元の

自我システムは、「出来たという形」ばかりを
追っている「自我最前線」状態になると、
「我絶対神なり」という御自我耳になるので
誰の音も一切入ってこないものです。

なので結局はそんな助言など右から左、
真意など捉える事もなく突っ走ります。そして
「よし!言われた事を全部やり切ったぞ!」
と、まるで「ただ夏休みの宿題だからやった」
「これをしたら、〇〇になると言われたから
そうした」みたいな創造をして、

もう「出来たんだ」とか「これで道が開ける」と
実に3次元的な「これをやりさえすれば、
これが得られる」という「獲得観点満載」な
「意識」をグラウンディングを成した状態を
見事に具現化してしまったりするのです。

例えば「1日10回ありがとうと言いましょう」
という課題があったとして、ただ10回言えば

いいんだと「ありがとうありがとうありがとう」と
ただ何かある度に言い続ける人と、

「丁寧に現実を観て生きる事は大切だ。
そうすると、相手が悪いとか自分にとって
よくないと感じる事も、その出来事が導いて
くれる學びが観えてくる。1日に最低10は、

ありがたかったなぁと思えるような大きな學びが

あるのだと思う。でも、わたし達はその事に
全く気付かずに生きているんだなぁ…」

という意識を持って「今は、未だその有難み

が解らぬ未熟なわたし」を自覚しながら、
たくさんの現実に「ありがとう」と云う人では
「具現化する世界線」は大きく異なります。

創造は「意識とエネルギー」が全てです。

「意識の在り方」をしっかりと立て直す時。
 

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~★ありえないを超えてゆく★~
 
「やってみましたが、変わりません」という時、
「意識」の置き間違いが生じています。
それは「100%」のレベルです。意識さえ、
しっかりとセット出来ているならば、後は
その意に基づく行動グラウンディングによって
間違いなく世界は具現化されます。

「いや、やっています。意識もきちんと、
自分の未熟さを自覚し、自我を下げてます」
と、御自我様が宣う時は、大概、
「振る舞いとして未熟さを自覚した風」を
装っているだけで、内心=無意識的には
「わたしが一番」「未熟なわけがない」
「わたしはやればできる」みたいな傲慢を
隠し持っているパターンです。

本当に「未熟」を理解していると、
どんな「現実」や「状況」の中に在ろうとも、
決して「否定・拒絶・イラつき・物申す」等々
「自我が出張ろうとする動き」が出ません。
相手の云っていることや、状況などが
「おかしい」「それは違うだろう」とか、
「納得がいかない」等々の反応の前に、

「あれ、意味がわからないぞ。またわたしは
自我システムに囚われているようだ」とか
「おお、わたしの知らない新種のシステムだ」
のように「自らの無知や未熟さ」へ返して
逆に無知ゆえの「傾聴」に転じる状態になります。

「黙せばいいんだ」と、「形だけ、黙って聴く」
状態を創造しても何の意味もありません。
頭の中で自我思考が喚いていたり、
心の中で「どうかな」「そうは思わない」
「それは、あなたの意見」みたいな絶対神の
御自我ジャッジが鳴り響いているなら、

「同じ意識の在り方」で「表現の方向性」を
「ベラベラ放ちまくる」から「黙す」へと
変更しただけで、根本は同じ状態です。
意識が変更されていなければ、振る舞いを
変更しても変わる事はありません。

では「ベラベラ放ってた方が得じゃん」と、
「我をぶちまけたい欲」の権化な御自我様は
隙あらば出張ろうとしまくるわけですが、
「型から學ぶ」という意を心得ることです。

「なぜ、黙すのか」「黙す意はどこにあるのか」
と、「その行動へ転じる意を捉えよう」と
全ての五感の耳をすませて観るのです。
それが全身全霊を使う真なる「観察」です。

芸事や伝統作法などを習ったり、或いは
何かの職人気質の師匠についたり、
独特な業界で仕事をする等々をされた事が
ある人ならば、「延々と掃除する」とか
「延々と着物をたたみ続ける」「延々と雑用
ばかりする」みたいに、まったく本筋とは
無関係な所作ばかりさせられて「うんざり」
した体験を持つ人がいらっしゃると思います。

即物的な御自我様が最前線状態だと、
「こんな事をする為に入ったんじゃない」
「いつまで、こんな事が続くんだ」「雑用なら
別の人を雇ってくれ」等々の自我意識が、
ゴリゴリに出張ってくるわけです。
 
「こんな所、やめてやる!」となったり、
「これも、いつか終わるだろう」と耐え忍ぶと、
學びは遠回りになるものです。
「与えられた事に、どんな意があるのか」
「ここにどんな世界があるのだろうか」と
絶好の「真意を観抜く鍛錬の機会」として
取り組むと「最短最速の飛躍」となる
「気づき」に至る可能性が高くなります。
 
因みにわたしの場合は、スピリットガイドが
上記の師にあたるので、どこへいっても
ついてくるという、残念なお知らせ状態、
逃げ場がなかった為に続けられたのだろうと
怠惰で幼稚な我が身を振り返り思います。

最初は、自我は幻想システムらしく、
「わたしが、それをする意味」を見い出すので
自分なりの理由に基づいて成すようになる。
「意味がある」=「わたしにとって利がある」
という「我欲ルート」に納得を見い出して
進み続けても、全く変わらぬ現実が到来し
「意味が報われることがない」繰り返しに
段々と「苛立ち」が募ってくるのです。

ここで「この現実をどう創っているのか」
というシステムの創造構造をよく観察をして、
「意味=我とっての利を見い出そう」とする
自我の「執着的な欲求観念」に気づけば
「意識の在り方」を変えることが可能です。

「一つ一つの事象に意味などはない」という
観点を自分のものにするには、自分が
「全なる一」という存在である事を、
受け容れる學びを超える必要があります。

「特別意識」を持っているから、その意識を
満たしてくれない現実へ不満を常に抱き、
どこまでも意味という名の「利や欲」を求め
叶わぬ現実に思い悩み苦しむのです。
路傍の石や雑草と同じく、一人の人間も
「全なる一」でしかなく、また「一なる全て」は
同じ大いなる意識体であり、全てが等しく
尊き存在ゆえに「全なる一」を成せる。

二元構造は「コントラスト」を使うので、
「全なる一」=「一片のわたし」の世界観を
「くだらないもの」という意で捉えがちですが
「全てが等しく同じ尊き存在」でなくば
「全なる一」を成すことは出来ないのです。
 
どの一片が欠けてもこの宇宙の循環を保てない
その一片となるを拒絶するという事は、
大いなる意識体である「自分自身の存在」
そのものを拒絶する自己否定と同義です。

「到来する現実」は、個々スピリットの
霊性プロセスにとって「等しく最善の學び」が
巡りとなって到来する循環的世界です。
ゆえ「思ってもいない現実の到来」があって
「自我の予想と大きくかけ離れて」いても、
自らが行こうとする道を具現化するには
この學びを超える事が必須と心得、静かに
その「真意」を観ぬこうと追ってみるのです。

「〇が出来る・なれる」と思って来たら、
朝から晩まで「掃除ばかり」等々の日々は
「この事象に強い不満を抱くわたしの状態は
真意が観えていない証。この事象が伝える
學びを観抜き、この未熟を超えよう」という
意を決定し行動グラウンディングをしていく。

そうすると、段々と到来した現実が、
自我にとって「ザラついた」ものであっても
「次の學びですね」と「はい、わかりました」と
いかなるもスッとお受け取りする事が自然と
出来る自分に成ってしまうものです。
無意識に「ただ受け取る」ようになった頃、
気づいたら「世界が変わっている」はず。

「あれ、いつのまにか〇を教えて貰えている」
「あれ、この前まで掃除ばかりだったのに
そういえばここ1年ぐらいないな」等々のように
「到来する現実全てを甲乙付けず受容する」
という日々を継続していると、全ての果は
「気づいたら」「いつの間にか」成るものです。

「事象の自我ジャッジ」があるうちは
意識は頑なに自我システムから動きません。
「今日は、掃除じゃなかった」とか
「やっと掃除をしなくてすむようになった」
「前より、〇〇は出来るようになった」
「昨日は〇だったが、今日は〇だった」等々は
まだまだ「思い通り」を欲を求める意識がある。

宇宙摂理に全てを「ゆだねる」ことです。

自我は最短最速を望む割に、その全てを

自らの自我の出張りで消去してしまいます。

「決定」は「流れを創ろうとする意識」とは

全く異なります。「決定」はただの「決定」で

「こうする」「こうなる」「ここへ行く」みたいに

意を決めて定めた指標。「指標」はあっても

現実は次の瞬間の「最善の學び」の到来で

指標とは「程遠い状況」になる事などは、

多々あるものです。むしろ「指標」があると

そうなる確率が高い。なぜならば、指標への

到達を成すにあたって、これまで無視して

流し続けてきた「課題」がめくるめく状態で

順番に到来し続けるからです。この時、

遠くなったからといって「思い通りの方向へ

何がなんでも調える欲」を剥き出しにすると

より遠くへ流されていきます。「決定」は

掴むものではなく「ここへ行くと決めました」と

宇宙摂理へ表明した目印です。その表明は

「たった一度でOK」です。自我システムの

「わたしは絶対〇になる!いやなっている!」

という「想い強化のエネルギー」は、二元の

自我システムを使う創造の方式です。

一元では「何も掴みません」。宇宙摂理の

循環へ「決定」を流すことで、現実の流れが

自動的に「決定」へ向かう「最短最速」の

ルートとなって導いてくれるのです。

わたし達は「ゆだねる」ように流れながら、

出逢う「今この瞬間」の學びを観抜き、

それを超える事だけに全力で集中します。

それ以外の「意識」は必要はないのです。

「意識の在り方」が「獲得観点」にぶれて

外軸になっていないか丁寧に観直します。

「出来た」「出来ない」の二元構造に意識が

ブレていると、「余裕がある時だったら、

〇〇出来る」「自分が〇な状態なら

△出来る」「言い方が、こうだったら聴ける」

等々のように、ある条件下であれば

それを成すことが「可能」みたいに「意識の

在り方が外軸」状態になっていたりします。

存在の全てへ働きかけるのが意識です。

事象と出逢った瞬間の「意識の在り方」を

しっかりと観察する癖をつけてみて―。

 

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