「 1 」を聴いて、「 万 」を観るように

「本質・真意」を捉える観察眼を立てる

例えば「これって、〇〇なのかなぁ?」と
誰かに問いかけられた時、それが〇〇で
あるかどうかを「知らない」場合、
「さぁ、どうなんだろうねぇ?」と返し
「わたしに訊かれても知りません」という
自分の「現在地を示す」に終わるか、

「どうなんだろうね?」と「知らない」という
「自分の現在地の學び」に気づき、即座に
「調べてみるよ」と「知る」を具現化する
「一歩」へと創造軸を立てるか、

前者と後者では「行動グラウンディング」が
大きく異なるので、タイムラインも同じく

前者は停滞へ、後者は未知へというように
大きく異なる結果となるのです。

言葉には必ず込められた振動があります。

その言葉の「裏」=「真意」を常に観抜き

「學びを具現化する」創造に徹します。

チューリップチューリップチューリップお知らせチューリップチューリップチューリップ

★当セッション詳細はコチラ→クリック

★2024年末までのセッション募集は、予定人数に

達しました為、一旦締め切らせて頂いております。

空き枠など現状、セッションにお申込みに関する

お問合せは、下部メールまでお願い申し上げます。

チューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップチューリップ

★キャンセル待ち随時募集中。

現在GATEセッション中の方は毎年自動更新を

致しますのでご不要の方のみご連絡下さい。

ご希望日時がございます場合は、ご記入に際して、

「平日or土日祝・午前or午後」で頂ければ幸いです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【①ご新規様&リピート単発セッションメニュー】

単発セッション詳細➡クリック

【②魂の羅針盤・覚醒GATEセッション】

覚醒を3次元で具現化する

覚醒プログラム意識の反転に特化

魂の羅針盤に沿い最短最速最善で

覚醒へ向かう渾身のセッション詳細クリック

kamiyogikasyu★gmail.com
↑(★⇒@へ変更して)お気軽にお問合せ下さい

~★ありえないを超えてゆく★~
 

創造は「意識とエネルギー」が全てです。
それは人が常に「何らかの意」に基づいて

生きている事を表しています。
例え「無意識」の振る舞いであっても
人の言動は何らかの「創造システム」に
則った「動」をいつも成しているのが宇宙。

我々は決定したシステム通りに体験を生く

「体験者」としての役に降りています。

そういった「認識」が意識の基盤にあると、
言葉を「聞き流す」という事がなくなります。
冒頭の「これって、〇〇なのかなぁ?」は
独り言レベルの「疑問」のようにも聴こえます。

二元構造の自我意識は、自分の体験世界には
関係がない問いは「全く興味がない」ので、
「さぁ?気になるなら、自分で調べれば?」
というような「我関せず」の観点を使います。
この観点は「ほんとだねぇ、何でだろうねぇ」
と適当に同意して流しておくだけでよい
非常に「楽」な創造を量産します。

御自我様が最前線になっている観点は、
「流すように日常を生きる」位置にあり、
「御自我の琴線」に触れる事象だけを
「気ままに」拾って生きるような世界です。
なのでこの観点に立ったままで、覚醒的な
観察を始めると、決まって「観察するような
出来事がないです」という状態に陥ります。

そもそも「現実の到来は全て學び」なので
「無」のような空間に存在していない限り、
「観察する出来事がない」などは起こり得ません。

よって「観察対象を観抜けない」という
「現在地」に在るだけです。まず、この事に
「真っ先に気づく」観点が必要になります。

「観察することないなぁ…」といって、
終わらせているようでは、自我の意識場から
解脱するなどは、まず不可能です。
なぜならば「体験者」だけの観点だからです。

その位置では「観察者」の観点は当然立ちません。

解脱には「体験者・観察者・創造者」の

三つの観点の柱の起動が必須です。

その3つの観点を適宜使い分け「現実」世界を

「自らが創造している」という観点に在ると、
「観察する出来事がない世界」を創っているのも、
他ならぬ自分自身だと解ります。

「創造者」なのに「観察しよう」とした時に

「出来ない=具現化に至らない」のは、何らかの
「エラー」が発生している状態です。

なので「観察する出来事がない」世界を、
わたしは「どう創っているのか?」という
問いを即座に自らへ返して観ていきます。

すると「観察する出来事がない」世界とは、
「観察する出来事」と「観察しない出来事」
のように、「世界を振り分ける二元構造」の
概念に基づき創られている事が観えてきます。
「振り分ける」という事は「内容を吟味する」

プロセスを経る事から、意のフォーカスは
「出来事」の方に在ると解ります。

 

そして「出来事」の発生をよく捉えると、

観察するか否かは全て「自我の意識場」で
「判定・判断」されている事が解ります。

「現実の全て」が最善の學びの到来です。
つまり「振り分ける必要はない」のです。
なのに「二元構造の意識場システム」が
発動して「自動的に振り分けている」ので
「観察する出来事がない」世界が誕生している。

観察とは、こうした「無意識」に行っている
「自我システム」の発動を捉えるものです。
「わたしの意識場が、出来事と連動し
どのように動いているかを観察する」のです。

では「観察するか否か」を振り分ける
「二元構造の意識場システム」を停めるには
どうすればいいかというと、「フォーカス」を
「出来事」から外すのが最短最速です。
自我の意識場は「到来する現実側」を
基本的にフォーカスする「外軸」が主流。

「この出来事が、御自我様の物語に
ふさわしいか否か」を判断する為に、
「出来事」にフォーカスが入っています。
これを停止して、出来事の中に流れながら
「わたし=自我」がその出来事をどのように
「処理」しているかを観察するのです。

例えば「観察する出来事がない」という

言動をしている自分を観察して、
「現実を自分で創っている観点がない」
「観察する・しないという二元が在る」
「現実は全て最善最良の學びの到来だが
それを認識する事が出来ていない」
「観察する出来事があれば、観察するのだ
というマイルールを勝手に創っている」等々、

ざっと「ほんの一部」を挙げただけでも
ツッコミどころ満載の自我の観点が
ゴロゴロと出てきます。つまり「十分に、
観察する出来事がある」ということです。
「観察する方向」を間違っているだけのこと。

「観察すべき出来事・そうでない出来事」と
「自我判定」で二元に振り分けている事に
気づかなければ「御自我のしたいがまま」に
翻弄されることになります。
つまり「自我の意識場」にどっぷりという事。

御自我様が最前線の世界では、
「自我の興が向くものだけをフォーカス」する

「楽して生きる」がベースになっていますので、
「全てなる力を尽くす世界」へは到達しません。
因みに、ここで云う「楽」とは「豊か・満ちる」
という方向への「進化・拡大」が一切ない、
という「不変を貪る楽」という意です。

「楽」を貪ると「したい観察だけする」人に
なります。例えば「腹が立って仕方ない」
「意味がわからない」等々の、
「自我の納得」が得られていない現実達への
辻褄合わせや、自我の宥めを得る為の
「観察」ばかりをしてしまうのです。

この観察点では「真意」や「本質」に触れる
創造などは夢のまた夢の位置です。
なぜならば「楽」ばっかりをフォーカスするので
「鏡の法則」が上手く機能しないのです。

冒頭の「これって、〇〇なのかなぁ?」に
対して「どうなのかなぁ?」とだけ述べる
我関せずの「楽」は、「観察したい出来事
だけ観察する楽」と同じ観点です。
「自我の興」にフォーカスがあるということ。

「鏡の法則」が主軸になっていると
「相手=わたし」ですから、「わたし自身」が
疑問を呈している状態だと認識するので
「ちょっと調べてみようか」とヘルプ要請に
対して、即座にサポートする事が出来ます。

自我はきっと「自分で調べればいいでしょ。
なんでわたしが調べなきゃなのよ」という
傲慢な観点を使いますが、まさにそれが
「鏡の法則」を上手に使えない由縁。
「鏡」という事を「受け入れません」という
自我システムの設定を優先する限り、
新しい観点も覚醒も具現化は厳しい。

「1」の音を聴いただけで、「万」が解る。

それは、スピリットには本来「当然」のこと。

なぜならば全ては「宇宙の法則」に基づく

「循環システム」の流上に在るので、その「1」が

放たれた方向へ無意識に向かう事が出来るから。

もし純粋に、ただ「鏡」というゼロに在ると、

「これって、〇〇なのかなぁ?」という音は

「〇〇であるかどうかを知りたい」方向へ

「希求」が放たれている事が解り、自然と


その方向へ行動グラウンディングが向かいます。

しかしそこで「自我システムの傾き」が発動して、

「知っていたら教えて欲しいのだろうけど

あいにくわたしは知りませんので」と、

「楽」に自分を配置して、「我関せず」で

「どうなんだろうねぇ?」という同調の方向へ

舵をとってしまうのです。「分離」意識は

「鏡の法則」を使わないので、その希求は

「相手の希求であって、わたしではない」と

「自分で何とかしなさいよ」という突き放し

「分離」を創造します。この自我システムの

「発動」に観察的に気づき、「鏡の法則」を

主軸に世界観を立て直していくと、

自我が「面倒ごとばかり」と判定していた

「他者」や「現実」とは、幼い自分に

多くの「知らない世界=學び」を提示する

最善最良の師である事が観えてきます。
 

そういう質の行動グラウンディングを

「継続」する積層を創造すると、やがて

「現実はいつも、全てを教えてくれていた」

という事が「明確に観える場」に到達します。

「1」を聴いて「万」を知る観点は、

 

宇宙の法則の神髄へ到達する観察眼です。
 

「本質・真意」の振動が響くど真ん中で

思い切り生ききる「観察」を目指して―。

 

 にほんブログ村参加しました

★当セッション詳細はコチラ→クリック

【①単発・覚醒セッション】

セッション詳細➡クリック

【②魂の羅針盤・完全起動覚醒GATEセッション】

覚醒を3次元で具現化する

覚醒プログラム意識の反転に特化

魂の羅針盤に沿い最短最速最善で

覚醒へ向かう渾身のセッション詳細➡クリック

※ご希望セッション及びご希望曜日(平日・休日)
氏名(フルネーム)ご明記の上、下記へメールへ

ご連絡下さいませ。

kamiyogikasyu★gmail.com
(★⇒@へ変更してください)

One catalyst you too.


いつもありがとうございます。

読んで下さって、本当にありがとう。
訪れて下さって、本当にありがとう。

それでは、また。

 

KAMIYOGIKASYU PLANET  

An gal-ta ki gal-se  PJ