そこを「超えれば」確実にステージは変わる

バラバラだったピースが繋がる 世界の扉を開け

「自我の意識場」という幻想の創造場の
「自我システム」を解除すれば、全ては
自動的に「本来」の在り方に戻ります。
『魂の羅針盤』が先導になるということです。

いつまでも「わたし」という設定データを信じ
いつまでもシステム通りの情動ルートを流れ、
まるで「流れ作業」のように、同じ情動体験を

味わい続ける自我システムの中で、

全ての「生命エネルギー」を使い果たすならば
「スピリットの役割」に目醒める事はありません。

それは例えば、駅で落とした物を、家の中で
探しても当たり前に見つからないのと同じで、
「わたしの設定」しかない自我システムの中で

自我の思考に流れる儘に、何をどう行動しても
「全なる一」の設定は一切起動しません。


自我システムの流れを使い続ける限り、

『魂の羅針盤』システムは最後尾に配置されます。

「自我システム」と「宇宙摂理の循環システム」を
別世界として隔てている「壁」は、
「意識とエネルギー」が創り出す振動の異なり。
スピリットは「全なる一」の振動に存在し、
自我は「わたしだけ」の振動に存在する。

もし「世界線」を変更したいなら、方法は一つ。

「その世界と同じ振動数になること」です。
つまり、「自我システム」から目醒めるならば、
「全なる一」に生きる「振動数」に成るしかない。

「自我の意識場」に在りながらも、

「自我システム」に流れることなく

『魂の羅針盤』と同じ振動数へ律していく。


それは「自我システムの設定」を根底から
「天地返す」ように覆すことになります。

自らの意識場の中で「自然淘汰」という

宇宙摂理の流れを創造し、それを使うのです。


「理」の通らない「自我の意識場」の中に

「自然淘汰」という「宇宙の理」を創り出す、

 それは宇宙摂理と繋がる、大いなる意識

「スピリット」という創造主だけが出来る創造。

「解脱」とは全なる意識を持つがゆえに可能、

そうした位置づけに存在します。

「自我システム」が見せる幻想の中で、

周波数にも思考にも、一切惑わされずに

「全なる一に徹する」振動に成る時、

『 魂の羅針盤 』へ繋ぐGATEが開くのです。

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~★ありえないを超えてゆく★~
 

なぜ、わたし達は「一連」という物語を創るのか。
それは、そもそも「自我システム」には、
「わたし」という意識の「設定」はあっても、
そこに「理」は存在しないからです。

「宇宙摂理」と相対する世界観の言葉として
「自我の理」と言うことも出来ますが、

実際の「宇宙摂理」は「起点から放った意識と
エネルギーが、起点へ巡り還る」循環の法則や、
「全なるは全を創る=フラクタル構造」に基づく

鏡の法則等々、一切の例外なく宇宙存在の全てへ
一貫して通る「理」を持っていますが、

「自我の理」は「自我の意識場」という
「ある起点=わたし」の創造場においてのみ
通用する「設定・ルール」等々を指しています。
他の「自我の意識場」と共通の概念は
「わたし絶対君主」ですが、これは宇宙全体に
流れる道には非ず、「自我の意識場」という

ある限定エリアでのみ有効な「一律の設定」です。

「宇宙に一貫して通る道筋」を「理」とする時、
個々スピリットの「自我の意識場」という
「ある限られた意識エリアにのみ」
一律にセットされている「わたし最高位」モードは
「理」ではなく「システム設定」だと観ます。

「宇宙摂理」と「自我の理」という言葉は、
全く異なる相容れない創造基盤を持つ
「相反する世界観」の表現として使えますが、
言葉を剥ぎ「本質」だけを剥き出しにすると
「理」と「設定」という根本的異なりがある。

「理」がないから、「物語」を紡ぐのです。
わたし達は出来事や事象に出逢うたび、

その都度「設定に応じた反応」は出来ますが
全なるに基づく「理」「一貫性」がない為、
目の前に到来する現実は、まるで土台のない

パズルのピースのようにバラバラとした

「繋がらない欠片」に見えてしまう。

 

だから「どうして?なぜ?」を問う事になる。

しかしその「理」は当然に存在し得ない為、
「幻想・妄想」等々の接着剤を大量に創造して
「一連の物語」世界を体験しているのです。

なので「自我の理」という言葉の「理」は
「幻想物語の筋道・設定」に該当します。
「設定」しかない「理を持たない」

自我の意識場の「わたし」達は、
「一貫性を幻想物語に託して生きている」
ということになります。

春夏秋冬や朝晩や天候等々が巡る事を
止める事が出来ないように、循環の「理」を
個スピリットが解除することは不可能ですが、
「自我の意識場内」だけの「システム設定」は
スポット的な設定ですので解除が可能です。

「システム設定」を解除するには、
その「設定回路を外す」ことになります。
「流れないようにする」ということです。
自我システムは「わたし」だけが他よりも
抜きんでて「特別な存在」であるとか、
抜きんでて「輝きを放つ」等々の「設定」の
シナリオ=幻想を体験しようとします。

周囲の全ての人間が、一斉に「自分だけ」を
特別に配置しようとする現実世界は、
比較や対立等々、様々なコントラストが
具現化しますが、そうした中に置かれても
一切のコントラストに反応せず、
今この瞬間の「共通事実」に基づいて、
「全なる一の役割に徹する」を淡々と貫きます。

「わたし」設定を全て「自らで破壊する」のです。

まず一切「主張」しない。一切「言い訳」しない。
例えもし「わたし」がある意図に基づいて行った
ある振る舞いを、他者が別の観点から捉えて、
嫌悪感を抱いたとしても、放っておきます。

そもそも「わたし」という設定がなければ、
「違うの、意図はこうなの」という主張はなく
「ゼロ」に在ります。ですから、そこへ一致する
行動グラウンディング「無反応」に徹します。


「そう思う人もいるだろうし、そう思わない人も
いるだろう。その事はコントロール出来ない」と、
「春夏秋冬をコントロールできない」のと同じ
全なる一の観点で「現実の到来」を受けます。

「これ、やっといて」と面倒事が回ってきても
「はい」と受容する。どう考えても、誰がみても
理不尽な押し付けであっても「はい」と受容する。
「自らが放ったものが巡り還り続ける宇宙摂理」は
「雨が降ってきたら、傘をさすように」
目の前に来る現実は「受け容れる」のみ。
 

「なんでわたしが」とか「はぁ?何様?」等々の
「自我システム反応」へは1ミリも動きません。

なぜなら「その現実が目の前に到来する」ならば

それは「わたしがどこかで放った全て」であり、

これを受けるのが、今この瞬間の役割。それへ

全なる一として行動グラウンディングをする。


こうしてまず「わたし設定」の流れを廃れさせる

「全なる一」の型に一致する動からはじめます。

最初のうちは、歯を食いしばって自我の暴走を

止めるのに必死になるでしょうが、段々と

食いしばらなくても出来るようになります。

「型」どおりに行動することが「全てにおいて」

出来るようになったら、今度は「理」を立てます。

「なぜ、このように行動するのか」という理です。


「立てる」と云いましたが、意図的ではなく、


「立ってくる」というイメージになります。

 

ここへ至るまで一切「憶測思考」は使いません。

自我は「筋道に沿って納得したい」ので、

すぐに憶測思考で「幻想理由」を創りますが、

 

全て即座に削除し「全なる一の型」に徹します。

最初は圧倒的に「自我システム」が優勢なので

 

「型」に行動グラウンディングする事すら

 

なかなかスムーズにいかないものです。


そのように周波数幻想が強い間は、


自発的な思考は全て自我システムに直結します。

 

なので、ともかく「全なる一の型」に徹し続ける。

 

「型」へ行動しても「ほぼ周波数が炙り出ない」

 

という段階になった頃、段々と自然と

「宇宙の法則」の理が、観えてくるのです。

 

「全なる一」に立ち、全てを欲しなくなると、

 

全ての「気づき」が自動的に降りるようになる。

「なぜ、この行動をしていたのか」とか、

「なぜ、これが必要だったのか」等々、


バラバラだったパズルの全ピースが綺麗に嵌り、


全ての世界には「理由」はなく、


ただ「ことわり」に属しているという事も、

 

宇宙摂理に基づいた「立体的な創造構造」から


明確に観えるようになるのです。そしてやっと

「ああ、そういうことだったんだ」と腑に落ちる

「確信」という体験を経る。何を幻想せずとも

自分はずっと「全なる循環の上に流れていた」

事実に確信的に気づく時、今世の「役割」が

どこに在るのかも「明確に」観えてくるのです。

 

全なる一の観点になると、宇宙の循環に在る

 

今世の「スピリットの流れ」が否応なしに

 

観えるようになってしまいます。自我にとって


役割は大概「まさか」と思うようなことです。

 

なぜなら自我にとって、それは特別でもなく、

「目の前に在るのに、ちっとも着目していない」

「全くフォーカスしていなかった」ような

 

「これでいいの?」的な当然だったりするから。

しかし、その流れに乗り始めると、全てが驚く程

スムーズになり、途端に豊かさが満ちてくる。

 

「え?なにこれ?」と驚く程、本道の循環は

 

様々な「豊かさ」の振動が溢れ増し行くルート。

それは最初から、ずっと共に在った世界ですが、

それに気づくと=「目醒める」事になりますから、

自我システムは徹底して「盲目」へ配置している。

 

覚醒に必要なのは「目の前の現実一つ」のみ。

 

ここにはないと思っている、その現実の中に


自らが盲目へ設定したGATEが存在しています。

 

それを「観てとれる」意識次元まで進むのです。

その扉を開けるには「わたし」の回路を遮断し、

「自我システム」の「自然淘汰による崩壊」を

 

創造する行動グラウンディングを継続します。

「自我システムの真ん中から」全ては始まります。

なので、最初から周波数が調うわけがないのです。

雷雨の嵐の中それでも「晴天の地へ行くのだ」と

一歩一歩「未知」を開拓すると、段々と雷が止み、

風が止み、雨が小降りになっていくのです。


意識次元の世界線はそうして変えていきます。

正規ルートは一本です。チートルートの行先は

 

一瞬「有頂天・高揚感・多幸感」の景色を経てから

「自我の中=幻想物語」に一巡し繋ぎ還ります。

自我の抵抗にフォーカスして動かぬならば、

終焉の幻想場「自我の意識場」に留まれます。

今のステージを超えて、進化へ行くか否か。

「覚悟の一歩」へ「決定」を成す時―。

 

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