ピスコを飲んだ

イングランド海賊ドレーク


シェリー酒界でもお馴染みの

イングランド海賊ドレーク

(スペイン語的にはドラケ)


ドレークとシェリー酒との関わりは

1587年に2900樽のシェリー酒を

略奪していった…


その後のアルマダ海戦で

ドレーク率いるイングランド艦隊が

スペインの大艦隊(通称:無敵艦隊*)に勝利

スペインの制海権は崩壊…

という話しが有名ですが


奪われたシェリー酒はそもそも

対イングランド海賊用に

大艦隊が積むはずだったものでした。


これもドレークが

スペイン領内を荒らしている

という報告に対し

イングランドのスペイン大使が

エリザベス女王にクレームしたところ


女王はドレークを叱るところか

サーの称号を与えらたことに

スペインのフェリペ二世が怒って海戦に…

という時のものでした。


そんなドレークは世界史でも習う

ホーキンスらの三角貿易にも

参加していた人物で

イングランドがカトリック圏ではない

(イングランドは聖公会/非カトリック)

ことをいいことに

スペイン領内を荒らしていました。


そんなドレークがスペイン領内を

舐めるように荒らしていたのが

世界周航の旅(1577-1580)でした。


イングランドを出たドレークらは

アフリカ、ブラジル、アルゼンチンを経由し

チリとペルーにやってくるのですが


ペルーはリマの近郊イカに来た1579年に

現地のペルーの人々はドレーク一行に

「ドレークに300樽**の

葡萄蒸留酒を払った」

という記録があります


リマにコロニーが出来たのは1535年

その後1553年にスペインから葡萄が移植され

1563年にはワイン醸造が始まり

1572年には蒸留がされていた

と言われています。


ドレークが来襲したのはそんな頃でした。


拙著「Sherry」(志學社)にも書きましたが

1580年にはヘレスのイエズス会の

大学の建設費にヘレス・ブランデーの

(現在のシェリー・ブランデー)

売上が充てられたとありますが

リマのコロニーで活動していたのは

まさにイエズス会***でしたので



蒸留技術が当時の

ヘレスに居たイエズス会から

伝わったのも疑いようがなく、

後にピスコと呼ばれる葡萄蒸留酒に

ヘレスが大いに関係あったことも

間違いないでしょう。


因みにペルーのピスコ市と

スペインのヘレス市は

現在、姉妹都市になっています。


ドレーク一行の世界周航航路

*無敵艦隊という言い方は
讃えたものではなく
歴史家が皮肉で言ったもの。

**確認出来る情報では
樽Barrel/botaとありますが
地理条件や樽材事情を考えると
実際、樽だったかは不明。
甕だったかもしれません。

***本来のイエズス会の布教許可範囲は
庇護の関係ではポルトガル領圏でしたので
南米ですとブラジルのみなのですが
ブラジルの最西端がペルーに近く
イエズス会の構成員には
多くのスペイン人も居たことから
その影響はリマ周辺にも及んでいました。

参考記事:ピスコ・ミュージアム

The Jesuit and the Incas

Wiki(ピスコ/スペイン語)

「Sherry」(志學社)