『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』 | モカの雑記録

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『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』 野口武彦 中公新書

[内容](「BOOK」データベースから引用)

「歴史にイフはない」なんて誰が言ったのか

―幕府の命運を決した慶応四年(一八六八)一月三日から六日にかけての四日間の戦いは、

さまざまな偶然に満ちている。

なぜ幕府歩兵隊の銃は装弾していなかったか、吹きつける北風は幕府軍にどう影響したのか、

そして慶喜の判断はなぜ揺れ動いたのか―。

誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦いをドキュメンタリータッチでたどる。

 

 

 

今回のテーマは、「鳥羽伏見の戦い」です。

 

8月28日の投稿では、「東北の戊辰戦争」を取り上げました。

まだ見ていない方はコチラ → 『奥羽の義 戊辰150年』

 

明治維新のきっかけとなった「鳥羽伏見の戦い」は、戊辰戦争の初戦と位置づけられています。

 

探してみると分かるのですが、「鳥羽伏見の戦い」をテーマにした書籍はあまり多くありません。

 

しかし、本書では「鳥羽伏見の戦い」を当時の史料から細かく見ていくことができます。

 

 

 

【プロローグ 鳥羽伏見の墓碑銘】
「鳥羽伏見の戦い」は、徳川家の命運を決した一戦であったことが説明されています。

 

本書では、最初から勝敗が決まっていたという先入観に左右されない見解を導き出しています。

 

また、徳川家の敗北を「自明の理」とせず、様々な検討が加えられています。

 

そして、「歴史にイフはない」ではなく、

歴史はイフの連鎖で成り立っている」という視点から語られています。

 

 

【第一章 開戦前夜】
幕末の大政奉還により、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しました。

 

実は、大政奉還では幕府に変わる新しい政体が構想されていました。

 

政治の舞台であった京都では、討幕派佐幕派の思惑が交錯します。

 

リーダーシップが求められるなか、将軍であった徳川慶喜は「無力」でした。

 

やがて、旧幕府軍が北上を開始、決戦のときは迫ってきます。

 

 

【第二章 伝習歩兵隊とシャスポー銃】
旧幕軍には「フランス伝習兵」と呼ばれる最新装備の部隊が存在しました。

 

フランス伝習兵は、当時最新鋭とされたシャスポー銃と呼ばれる後装銃を装備していたとされています。

 

それまでの弾薬を銃口から装填する前装銃先込式と、

 

銃身の後部から装填する後装銃元込式では装填速度に大きく差がありました。

 

先込式では、弾丸を込めるときに立ったまま操作をしなければなりません。

 

つまり、装填中に敵の弾に晒されるリスクが高いのです。

 

鳥羽伏見の戦いの記録では、シャスポー銃が使用された明確な痕跡はありません。

 

しかし、薩摩藩の記録には

伝習歩兵隊がシャスポー銃を使用していたのではないかと思われるところがあります。

 

 

【第三章 鳥羽伏見の開戦ー戦闘第一日目 一月三日】
陸軍奉行の竹中丹後守重固は歩兵隊や桑名藩、浜田藩を率いて鳥羽街道を行軍しました。

 

歩兵奉行並の城和泉守は歩兵隊や新選組とともに伏見方面へ。

 

また、旧幕軍の部隊は二条城や大仏、黒谷などにも配置されました。

 

鳥羽街道では、薩摩藩と旧幕軍が対峙していました。

 

薩摩藩兵は、大軍で押し寄せる旧幕軍に脅威を感じていたことが当時の史料から伝わってきます。

 

開戦時、薩摩藩の砲弾は正確に発射され、旧幕兵は次々と撃ち倒されました。

 

大目付の滝川具挙の乗馬は疾駆、旧幕軍は大混乱に陥りました。

 

先頭の伝習隊は銃に装弾していなかったため、大量の死傷者を出して敗走することになります。

 

また、伏見方面でも激戦が繰り広げられました。

 

特に、伏見奉行所では会津藩や新選組が苦闘しました。

 

伝習隊が銃に弾丸を込めていなかった理由は、

慶喜や慶喜の中奥小姓だった村山摂津守鎮の史料を元に考察されています。

 

 

【第四章 俵陣地と酒樽陣地ー戦闘第二日目 一月四日】
鳥羽伏見の戦場では北風が吹き荒れていました。

 

風下で戦っていた旧幕軍は不利がついてまわり、薩軍(薩摩藩軍)にとっては「神風」となりました。

 

旧幕軍は米蔵から持ち出した米俵を積み上げて「俵陣地」をつくり、薩軍と交戦します。

 

戦況は膠着状態となっていましたが、大砲を活用した薩軍が優勢となりました。

 

撤退した旧幕軍は南下し、富ノ森の陣地に立てこもりました。

 

旧幕軍は、酒造業が盛んだった伏見から酒樽を調達して「酒樽陣地」をつくり、薩軍と再戦。

 

防御が薄かったことから旧幕軍は淀方面へ退却することになりますが、

猛反撃により奪回することに成功します。

 

全体の戦局は新政府軍に有利に展開、

旧幕軍は軍事的にも政治的にも逆転することが難しくなっていました。

 

 

【第五章 千両松の激戦ー戦闘第三日目 一月五日】

一月五日の早朝、征討将軍仁和寺宮嘉彰親王が戦場の視察に出発。

 

錦の御旗二旒を左右に押し立てて巡幸しました。

 

行程は短かったものの、効果は絶大。

 

特に、大坂城の徳川慶喜は衝撃を受けました。

 

一月五日、旧幕軍は奪回した富ノ森陣地で戦闘を開始します。

 

薩軍は苦戦しながらも、大砲により戦局を有利に展開しました。

 

千両松の戦いでは、新政府軍の小銃旧幕軍の刀槍の差が劇的に露呈することになりました。

 

さらに、淀藩が裏切ったことにより、旧幕軍は追い詰められます。

 

慶喜は大坂城で演説を行い、旧幕軍は橋本関門で陣容を整えます。

 


【第六章 藤堂家の裏切りー戦闘第四日目 一月六日】
橋本では旧幕軍の奮戦で新政府軍が苦戦していました。

 

しかし、要所に配備されていた津藩の藤堂家が裏切ります。

 

当初、津藩は旧幕軍を援助する方針でいたのですが、

旧幕軍が約束を守らず大敗したことを理由に見切りをつけたのでした。

 

敗走した旧幕軍は大坂籠城を覚悟し、軍備を整えます。

 

この時点では、大坂城には温存されていた部隊もかなり多くあり、逆転の可能性も十分にありました。

 

 

【第七章 徳川慶喜逃亡】

慶喜は将士に「出馬する」と宣言して決戦の意思を表明しました。

 

しかし、その直後に慶喜は数人の部下とともに大坂城を脱出してしまいます。

 

大坂城は深い濠や高石垣など防御性が高く、天下の名城として知られていました。

 

兵糧も十分に確保してあり、新政府軍も覚悟するほどの難攻不落の要害でした。

 

慶喜が大坂城を放棄したことは、最後の逆転の機会を失ったことに等しいものでした。

 

慶喜のいなくなった大坂城では、城引き渡しの交渉が行われることになります。

 

 

【エピローグ 江戸の落日】

鳥羽伏見の戦いでは、約400人前後が犠牲となりました。

 

まさか戦闘になると思わなかった旧幕軍は銃に装弾しないという失態を演じて敗走。

 

敗報に狼狽した慶喜は大坂城で持久戦に持ち込むという選択を捨て、江戸へ逃亡しました。

 

江戸に帰った後の慶喜は、戦うか恭順するか決断が下せないでいました。

 

そして、江戸城内でフランス公使のロッシュと対談した慶喜は

ついに抗戦の意思を失ったとされています。

 

 

 

「鳥羽伏見の戦い」を先入観ナシで、冷静に分析されていると思いました。

 

歴史にイフを認め、勝機ならぬ「敗機」をとらえ、「逸機」として5つにまとめてあるところが良かったです。

 

慶喜が大坂籠城を決意して実行していたら、日本の歴史が変わっていたかもしれませんね。

 

「鳥羽伏見の戦い」をテーマに、勝負には様々な可能性が存在することを学ぶことができました。

 

これからは、先入観ナシで物事をとらえてみたいものです。