おひつじ・アルゴ船物語はギリシア神話の凄惨な面を代表する悲劇で,古代から現代まで様々な文芸作品に取り上げられています。この小文は元の物語を筆者なりに脚色改変したことをご了解ください。なおアルゴ座という星座は今はありませんが,ギリシア時代には、おおいぬ座の東南の空に描かれていました。しかも歳差運動のため当時この方向は北半球からも見えていました。そこは星の密度が高く,星雲・星団などもひしめいていて,壮大な船を思い浮かべるには適しています。しかし1750年ラカイユはこの大星座を,らしんばん座,ほ(帆)座,とも(船尾)座,りゅうこつ(龍骨)座に四分割してしまいました。
ギリシア北部のテッサリアにフリクソスとヘレという幼い兄妹がいました。二人は国王アタマスの子ですが,彼らの母ネフェレは離縁されてしまい,新たにやってきたお妃イーノーに何かと邪魔者扱いされていました。ある年,この国は大凶作に見舞われ,王はゼウスの神殿にお伺いと立てると,なんと「フリクソスを生け贄にして捧げよ。」との神託が下りました。王は国の飢饉を放っておくわけにもいかず,やむをえず神のお告げに従うことにしました。実は凶作も神託もすべてイーノーが農民や神官を買収して仕組んだ悪企みだったのです。それに気づいたネフェレは二人のわが子を救うため,ゼウスに祈りました。ゼウスもその願いを聞き届け,二人のもとに全身金色の毛を持ち空を飛ぶことのできるお羊を遣わしました。兄妹を背中に乗せたお羊は,王の館を脱出し東へ東へ飛んでいきます。
ところが途中であまりの高さに目の眩んだヘレは,海の中にまっさかさまに落ちてしまい帰らぬ人となってしまいました。その海はエーゲ海と黒海の境で彼女の名をとってヘレスポントス海峡と呼ばれています。妹を捜すこともできないフリクソスはそのまま飛び続け,やがて黒海の東岸コルキス国に着きました。彼はコルキスの国王に暖かく迎えられ,その国で幸せに暮らしたということです。コルキスとは現在のグルジアに実在した国でギリシアから渡来した人も多数住んでいました。フリクソスはゼウスとアイエセスへの感謝のしるしとして,その金毛のお羊を捧げ,毛皮はコルキスの宝として眠らぬ龍が守ることになりました。
アタマスやイーノーはそのままで,最も活躍したお羊は焼き殺されてゼウスへの捧げ物にされたというのは何とも後味悪い話ですね。
さてアルゴ船とはギリシアのイオルコスの王子イアソンの率いる冒険船の名です。イアソンの父アイソンは弟ペアリスに王位を奪われ,幼いイアソンは半人半馬のケンタウルス族のケイロンに育てられました。成人したイアソンは叔父の王宮へいったところ,王位を返してもらう条件として黒海東岸のコルキスにある金毛の羊皮を取りに行くことになりました。イアソンはギリシアの若者50人を募って巨大な船を作って出発しました。その中にはヘルクレス,カストル,ポルックス,オルフェウスなど大型の勇士が多数参加しましたが,彼らはあまり活躍していません。アルゴ船は数々の困難を経て航海しますが,その間にはある島で休憩中にヘルクレスが寝過して置いてきぼりになった話もあります。ともかくエーゲ海から黒海に入りコルキスに着き,イアソンはコルキス王に金毛の羊皮をギリシアに返すよう要求しますが,王はもちろん承知しません,まあアタリマエですね。それどころか難題を吹っかけてイアソンを殺そうとします。しかしイアソンに一目惚れした王女メディアの魔法の力を借りて龍より金毛の羊皮を奪って,さらにメディアをも奪ってギリシアへ帰還します。これでは勇ましい冒険物語というよりまるっきり略奪遠征記で,コルキスの王に同情したくなりますね。
ところがここから,こわ~い物語に転じます。コルキス脱出の際にメディアは幼い弟アプシュルトスを連れて来るのですが,父王の船に追いかけられたときに,この弟の体をバラバラに切り刻んで海に捨ててしまいます。英雄揃いのアルゴ船の乗組員もビックリ,声も出ません。コルキスの兵たちが慌てて遺体を捜し拾い集めている間にアルゴ船は逃げることができたのです。何と怖しいこと,でも自分を助けてくれたこの魔女と結婚せねばならない・・・イアソンは悩みます。帰路は嵐に遭い黒海からドナウ川を遡り,北海に出て大西洋回りで地中海に入ったようです(ありえないような経路ですが気にしないで)。その間に多くの怪物や魔女の攻撃を受けたり、極寒の島に漂着したり、青銅人に追いかけられたり・・・長くなるので省略・・・やっと故国へ着きました。
帰国後,イアソンは叔父ペアリスに金毛の羊皮を渡しますが,約束は守られず,2人は王位を争うことになります。そのときメディアはイアソンのために残虐な手助けをします。若返りの妙薬の入ったという豪華な風呂の中にペアリスを誘い入れて煮殺してしまうのです。イアソンは王位に就いたものの,次第に妻に対し気味が悪くなり嫌気がさしてきました。さらにイオルコスの人々も彼を王とは認めず,二人を追放してしまいます。国を追われた二人はコリントスに住みますが,そこでイアソンは国王に気に入られ王女と結婚することになってしまいます。怒り狂ったメディアは国王・王女を焼き殺し,さらにわが子も刺し殺し,龍の車に乗って逃亡します。・・・でもイアソンは殺せない,すべては彼のためにやったこと・・・別離した二人はともに不幸な晩年を送ります。メディアは一時アテネの王妃に収まりますが,王子テセウス(クレタ島の魔牛ミノタウロスを退治してギリシアをクレタから独立させた英雄)に追い出されて,最後に住み着いたところは後にメディア(ペルシアの北部あたり)とよばれるようになりました。
一方,老いたイアソンはひとり諸国を放浪の末,とある入江につながれた廃船アルゴを見つけました。「お前も年をとったなぁ。」イアソンは近寄って懐かしそうに船端をなで,曲がった腰を伸ばして船上に乗っていきました。ところが老いた船は老人一人の重みにも耐えられず,ギーギーと音をたて崩れ落ちていきます。イアソンは朽ち果てたアルゴ船の破片に囲まれ,数々の冒険を思い出しながら,寂しくその生涯を閉じるのでした。
さて一番悪いのは誰でしょう? イアソン?メディア? いやいや実は,メディアが父や弟を裏切り残虐な魔女になってまでイアソンに激しい恋をしたのは,ビーナスがイアソンを助けるために,息子のエロスに命じてメディアの心臓に愛の矢を射せたためなのです。事件の元凶はいつも神々の気まぐれです。