幕末の長岡藩家老で、戊辰戦争では東西の融和を訴えたが新政府軍に拒まれ、最新兵器で交戦したが負傷し、会津へ退避途中に只見町塩沢で亡くなった。

 現地には記念館があり、その北の山間部に墓がある。