幕末、長崎のフランス人居留地にカトリック教会が建てられたが、それが発端となって隠れキリシタンの存在が明るみに出て、幕府によって捕縛されたキリシタンは厳しい拷問を受けた

 幕府が崩壊し明治新政府になっても禁教政策は引き継がれ、長崎のキリシタンは西日本各地に流刑とされた。鹿児島もその一つで、明治6年に列強の外圧で禁教が解かれるまでに、この地で53人が他界し、鹿児島市池之上町に石を並べただけの簡素な墓地がある。

 一番手前にあって十字架の彫られた立派な墓碑は、明治38年に建てられたものになる。