日露戦争においては国内の各地に捕虜収容所が建てられたが、その中でも松山は捕虜を優遇したことで知られ、戦地のロシア兵は「マツヤマ」と叫びながら投降したと言われる。

 墓地の隣には、伊予藩加藤家の重臣だった足立重信の墓もある。重信は関ヶ原の戦いにおいて、松山の留守居を務め、毛利勢の攻撃を退けたことで5千石を得て家老となった。