吉田大八守隆は幕末における天童藩の家老で、朝廷から東北諸藩に発せられた会津藩追討の命令により、薩摩・長州・仙台藩などの先導役となって庄内藩へ攻め込んだ。
しかし、東北諸藩と薩長鎮撫軍との対立が表面化したことで、奥羽越列藩同盟が結成されることになり、天童藩も同盟に加わることになった。
大八は藩命で先導役となったにもかかわらず、庄内藩の責任追求に抗しかねた藩主により切腹を命じられた。37歳という若さだった。
墓は天童市の佛向寺にあるが、一般のお墓に紛れて案内もないので住職に教えていただいた。