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おしろまなぶ の お城を学ぼう

訪問したお城について書いていきます。

今回は、現在の東京都北区にあった稲付(いなつけ)城をご紹介します。
久しぶりに訪問しましたので、写真や文章などを再編集してお送りします。



稲付城跡は、現在は東京の下町・赤羽にある静勝寺(じょうしょうじ)の境内となっていて、赤羽駅西口から徒歩5分くらいで行くことができます。


赤羽駅西口。
JR東日本の宇都宮線(高崎線、上野東京ライン、湘南新宿ライン直通含む)、京浜東北線、埼京線(りんかい線、相鉄線直通含む)が乗り入れています。
乗換え駅としてもよく利用されるターミナル駅です。


稲付城跡の碑。
この階段の上に静勝寺があります。
静勝寺は、1504年(永正元年)に雲綱和尚が太田道灌の菩提を弔うために、稲付城跡の一角に道灌寺を建立したのが始まりといわれています。
実際には、稲付城は1590年(天正18年)までは後北条氏の城として存在していて、寺となったのは廃城後のため、1655年(明暦元年)に太田道灌の子孫である太田資宗が整備したということのようです。
静勝寺の公式HPは↓↓
https://joshoji1486.sakura.ne.jp/

稲付城は、戦国時代に太田道灌が築城したと伝えられています。


静勝寺の山門。
かなり古い門ですが、いつ建てられたのかは分かりませんでした。

太田道灌が暗殺されると、道灌の孫・資高はこれまでの主君・扇谷上杉氏から後北条氏に寝返り上杉朝興から江戸城を奪いますが、江戸城代には任命されず稲付城主に甘んじることになります。


静勝寺の本堂。
現在の本堂は関東大震災後の1928年(昭和3年)に建てられました。

資高の子・康資は江戸城代に任命されなかったことから北条氏康に不満を持ち、上杉氏への寝返りを図って里見氏の協力を得て、第二次国府台合戦へと発展していきます。
国府台の合戦については臼井城国府台城の記事をご参照ください。


道灌堂。
道灌の命日である7月26日に扉を開けて、中に祀っている太田道灌像を見ることができます。

その後、1655年(明暦元年)には太田資宗が堂舎を建立し、寺号を自得山静勝寺と改めて今日に至ります。

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太田道灌木像。
以前訪問した時にたまたま扉が開いていまして、その当時の写真がこちらです。
1695年(元禄8年)に造立され、以後6度の修復を経て、1987年(昭和57年)に現在の姿になっているのだそうです。
木造太田道灌坐像として、北区の有形文化財に指定されています。

稲付城は東京都心に近く、周辺は開発が進んでいることもあり、なかなか遺構を見つけることは難しいですね。
それでも当時は非常に重要な役割を担っていたことが分かります。

では、短いですが今回はこの辺で。


おしろまなぶ。