棚倉城(陸奥国・福島県東白川郡) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

8月になりました。
暑い日が続いていますが、体調など崩されていませんか?
私は暑さに負けてだいぶ体調が悪いです(汗)

先月の話になってしまいますが、以前ご紹介した新潟直送計画さんから、インスタグラムのキャンペーンに当選したということで嬉しい品物が届きました。


幼い頃から新潟の枝豆を食べて育ってきた娘が大喜びで、半分以上は娘が1人で食べてしまいました(苦笑)
生憎こちらの商品は現在品切れとなっていますが、再度入荷した際、または新潟には他にも美味しい枝豆が沢山ありますので、そちらをお求めいただくのもいいと思います。

さて今回は、現在の福島県東白川郡棚倉(たなぐら)町にあった城、棚倉城です。



棚倉城跡は現在、亀ヶ城公園として整備されていて、磐城棚倉(たなくら)駅から徒歩10分くらいで行くことができます。


磐城棚倉駅。
JR東日本の水郡線が乗り入れています。
水郡線は非電化単線のローカル線で、磐城棚倉駅は列車交換のできる無人駅です。
1944年(昭和19年)までは白棚(はくほう)線も乗り入れていましたが、太平洋戦争の激化に伴って不要不急線として休止となり、代替バスが運行されました。
戦後、線路跡は舗装されてバス専用道となったため、現在も休止状態のままJRバス関東のバス路線として運用されています。
何だか昭和のBRTって感じで、時代の最先端を行っているかのようでした。


城跡ポケットパーク。
棚倉城の北門跡付近にある小さな公園です。
写真左側に井戸がありますが、当時からあったものなのでしょうか??
ちなみに、近くに時の鐘ポケットパークがあり、模擬時の鐘があるのですが、行きそびれました(汗)


亀ヶ城公園の入口。
北二門跡が公園の入口になります。


土橋から見た内堀。
とても大きな水堀で、噴水が出ていました。
蒸し暑い時期にはすごく爽やかな気分にさせてもらえますね。
内堀には大亀が住んでいて、この大亀が水面に姿を現すと城主が転封になるというジンクス(?)があったといわれていることから、亀ヶ城という別名がついたのだそうです。
棚倉城について、詳しくは↓↓
http://www.town.tanagura.fukushima.jp/page/page000344.html


土橋を渡って、北二門跡を間近に見てみましょう。
ここから先が本丸跡になります。

棚倉城は、1622年(元和8年)に常陸国江戸崎から転封となった丹羽長重が、幕命を受けて近津明神(都々古別神社)を遷宮し、その跡地に1625年(寛永2年)に築城しました。


北二門跡の土塁。
このあたりには櫓門が設けられていたようです。


本丸跡。
かなり広いです。
猛ダッシュで駆け抜けたい衝動に駆られます。いや、ダッシュしませんけど(笑)
かつてはここに中央公民館と図書館があったそうですが、2011年(平成23年)の東日本大震災で被災し、町の復興計画の中で棚倉駅前に移転することとなり、解体されました。


櫓台跡。
ここには本丸の北西を守る隅櫓が置かれていた場所です。


櫓台跡。
こちらは北東の隅櫓があった場所です。
石垣が見えますが、鬼門にあたる場所のためにこのように厳重な造りだったのでしょうか?
後ほど内堀の外側からの写真を載せますが、北東隅の土塁には鬼門除けの凹みが設けられています。


櫓台跡。
こちらは南東の隅櫓があった場所です。


櫓台跡。
最後に、南西の隅櫓があった場所を載せますが、ここだけ追手枡形門と隣接している関係上、隅櫓といいながらも厳密には隅にありません。
いや、細かいことはいいですね。


追手枡形門の門跡。
枡形虎口って割と内側(一の門)に櫓門、外側(二の門)に高麗門が置かれることが多いと思いますが(もちろん例外も多々ありますが)、こちらは内側の櫓門があった場所になります。


枡形部分には公園があり、トイレや遊具が設置されています。

1627年(寛永4年)に長重が白河藩に移封されて代わって内藤信照が入城すると、以後は内藤氏、太田氏、松平氏、小笠原氏、井上氏、阿部氏と目まぐるしく城主が変わり、幕末を迎えます。


大手枡形門の土塁と亀ヶ城址の碑。
こちらは大手枡形門の外側の門跡になりますので、おそらく高麗門があったのではないかと思います。


大手枡形門に続く土橋跡。
このように本丸周囲だけでも城跡の構造が残っているだけでも素晴らしいことだなと思いますね。


棚倉城跡の大ケヤキ。
二ノ丸追手門と大手枡形門の間くらいにあります。
福島県の天然記念物に指定されているこちらの大ケヤキ、樹齢約600年ということで、棚倉城の築城以前からこの地にあったということになりますね。スゴい・・・。


二ノ丸追手門跡。
棚倉城の南側の駐車場一角にあります。
1887年(明治20年)に東白川郡役所が建設される際の盛り土の影響で、追手門の所在は不明となっていましたが、2005年(平成17年)の試掘調査で礎石が発見されたのだそうです。
現在は遺跡保護のため盛り土をしています。


棚倉街道から追手門方向へのびる道路には、現在の追手門ともいえそうな門柱(?)があります。

1868年(慶応4年)に勃発した戊辰戦争の際に、藩主・阿部正静は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、激しい攻防の末に奥羽越列藩同盟軍は敗れ、棚倉城も落城しました。


外側から見た本丸北東隅の土塁。
内堀にはいくつもの噴水がありますね。
鬼門除けの凹みがあるの、分かりますかね?草木がスゴくて分かりにくいですね(汗)


棚倉町立棚倉中学校のグラウンド付近からは、二ノ丸の石垣を見ることができます。
残念ながら草木に覆われていて見えにくいのですが、かなりスケールが大きくてスゴいなぁと思いました。
東日本大震災でこちらの石垣も一部崩落しましたが、見事に修復されています。

遺構もかなり残っていて、非常に見所の多い城跡でした。
駅からは近いのですが、ローカル線のためちょっとアクセスが難しい部分はありましたが、代わりにバス専用道を走るバスに乗れて、貴重な体験をしました。

では、この辺で。


御城学。