喜多見陣屋(武蔵国・東京都世田谷区) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

あっという間に5月も後半です。時間が経つのは本当に早いですね。


最近デジカメのズームがおかしくなったので、買い換えました。
これから城巡りや様々なイベントで活躍して貰おうと思っています。

さて今回は、現在の東京都世田谷区にあった喜多見陣屋をご紹介します。



喜多見陣屋跡は現在、慶元寺や須賀神社の周辺となっていて、成城学園前駅南口から小田急バスまたは東急バスで次太夫公園前バス停で下車すると、徒歩8分くらいで行くことができます。


成城学園前駅南口。
小田急電鉄の小田原線(東京メトロ千代田線直通含む)が乗り入れています。
1927年(昭和2年)に旧制成城高等学校(現在の成城大学および成城学園中学校高等学校)が当地に移転した際に駅の招致があって開業した駅のため、成城学園前という駅名になっています。
私立の旧制7年制高等学校は、成城高校の他に武蔵高校(現在の武蔵大学および武蔵中学校・高等学校)、成蹊高校(現在の成蹊大学および成蹊中学校・高等学校)、甲南高校(現在の甲南大学および甲南中学校・高等学校)の3つがありました。


慶元寺。
1186年(文治2年)に江戸太郎重長が江戸氏の氏寺として江戸城周辺に天台宗の寺院・東福寺を創建したのが始まりです。
江戸氏が江戸城を太田道灌に明け渡して本拠地を喜多見に移すと、東福寺も1468年(応仁2年)には現在の喜多見の地に移転しました。
1540年(天文19年)に空誉上人が中興の祖となると浄土宗に改宗し、慶元寺と改められました。


江戸太郎重長像。
平安時代末期から鎌倉時代初頭の武将で、1180年(治承4年)の石橋山の戦いでは源頼朝と敵対していましたが、その後源頼朝に従います。
1189年(文治5年)の奥州合戦に従軍して奥州藤原氏の打倒に貢献しました。
喜多見氏の先祖にあたるということで、慶元寺の境内には江戸重長の銅像と五輪塔があります。


慶元寺の山門。
こちらの山門は、1755年(宝暦5年)に建立されたものです。

喜多見陣屋は江戸氏(後の喜多見氏)が築城した喜多見城が始まりとされています。
その後は喜多見氏は世田谷城の吉良氏や後北条氏に従っていましたが、1590年(天正18年)に後北条氏が滅亡した後は、徳川家康の家臣となります。


慶元寺の本堂。
1716年(享保元年)に建てられたこちらの本堂は、世田谷区に現存する本堂としては最古のものなのだそうです。
ちなみに慶元寺は幼稚園を運営していまして、寺院自体のHPは無かったのですが、幼稚園のHPがありましたので、↓↓に載せておきます。
https://www.keigenjiyouchien.ed.jp/


須賀神社。
承応年間(1652~1654年)に喜多見重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれていて、湯花(ゆばな)神事という祭事が世田谷区の無形民俗文化財に指定されています。
大釜で沸かした湯を笹の葉で周りに振りかけ、湯がかかった人は1年間病気をしないといわれているそうです。
お湯かかったら火傷しないのかな・・・。

1686年(貞享3年)に喜多見重政が喜多見藩を立藩して喜多見城跡に陣屋を築きますが、1689年(元禄2年)に突然改易され、陣屋も廃されました。



次大夫堀(じだゆうぼり)公園。
喜多見陣屋跡の最寄りのバス停があるこちらの公園にも立ち寄ってみました。
世田谷の農村風景と昔ながらの小川を再現した区立公園で、小泉次大夫という人がこの地域の用水を確保するために作った堀の名前から次大夫堀公園というのだそうです。
詳しくは↓↓
https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kusei/012/015/001/005/d00014473.html


復元された次大夫堀。
江戸幕府の代官である小泉次大夫の指揮で、1597年(慶長2年)から15年の歳月をかけて整備された農業用水で、正式名称を六郷用水というそうです。
江戸時代から昭和の時代まで用いられていたようで、農業用水としての役目を終えた後の1980年(昭和55年)に復元されています。