小泉城(上野国・群馬県邑楽郡) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

もう11月です。早いです。

今回は、現在の群馬県邑楽(おうら)郡大泉町にあった城、小泉城です。



小泉城跡は現在、城之内(しろのうち)公園として整備されていて、東武鉄道小泉線の小泉町駅または西小泉駅から徒歩10分くらいで行くことができますが、今回は車で行きましたので駅の写真はありません。

大泉町は人口約4万2千人の町で、群馬県の町としては最も人口が多いです。
また、ブラジル人などの外国人が多く、人口の20%近くは外国人が占めています。
平成の大合併の際には太田市や他の隣接自治体との合併の話もあったようですが、白紙となっています。


城之内公園の東側の入口。
駐車場も完備されていて、便利です。
私は西側の駐車場に車を停めました。


本丸跡に向かう木橋がありますが、なんかこう、中世の城というより近代の城に近い雰囲気を感じます。
整備の仕方の問題なのか、元々こういう感じの城跡なのか・・・。


内堀。
水堀なのもそうですが護岸工事の影響でしょうか、やはり近世の城跡に見えてしまいます。

小泉城は、1489年(延徳元年)に結城持朝の子・持光(後の富岡直光)が築いた富岡城が始まりとされています。


本丸虎口。
両側に土塁が聳えていて迫力満点ですが、公園化の際におこなったと思われる、土塁の下部分を補強している石垣のおかげかもしれません。


本丸跡。
かなりの広さがあります。
ここにシートを敷いて家族でお弁当を食べたくなるくらい広くて真っ平らです。
城主の居館があったんでしょうね。


本丸跡の土塁の一角には小泉城跡の石碑があります。
写真では分かりにくいですが、文字のバランスが少々おかしい気がします。


土塁上に謎の標柱(?)を発見しました。波切不動明・・・。
登ってみましょう。

富岡氏は足利成氏(鎌倉公方、古河公方)に従っていましたが、後に上杉謙信や後北条氏に従います。


先程の標柱といいますか、石柱といいますか・・・一天四海皆喜妙法と書かれていますが、日蓮宗的な感じの何かがあるのでしょうか?


奥には祠がありましたが、日蓮宗的なものは見つからず・・・。


内堀が本丸跡をぐるっと取り囲んでいます。
中世の平城ってこんな近代的な感じだったのかと驚かされます。
この辺りに馬出があったようですが、失われています。


下の部分が補強されてるとはいえ、土塁が立派に残っていて感動します。


大泉町立北中学校。
西曲輪跡~二の丸跡にかけて中学校があります。


北曲輪。
ここも広いです。

1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅亡すると小泉城も廃城となりました。


城之内古墳。
町内の民家の敷地内にあったものを、大泉町の歴史上重要なものとして移築したのだそうです。
古墳を移築ってどうやってするんだろうと考えてみましたが、イメージができませんでした。


城之内の百庚申。
小泉神社西側の小泉城土塁跡にあったものを移したのだそうです。
江戸時代中期から明治時代にかけて造立されたものだそうで、この辺りの人々の信仰が篤かったことが伺えます。


黎明地蔵尊。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)4月4日に米軍の爆撃機B29による空襲を受けて亡くなった方々の冥福と世界平和を祈るために建立されたものだそうです。
元々は町内の別な場所にありましたが、地域の開発に伴って現在地に移されています。
何だかここには色々なものが移されてきていますね。


北曲輪跡には遊具もたくさんあります。
娘には遊具でたくさん遊んでもらって、私は少しの間城攻めをします。
小泉神社にも行こうかと思いましたが、さすがに自重しました(笑)


北曲輪内では、鶏やインコも飼育されています。
娘がある鶏に「鳴いて!」と言うのですが、違う鶏ばかりコケコッコーと鳴くので「そっちじゃない!」と毎回なぜか怒っていました(笑)


鶏小屋の裏手、北曲輪と東武小泉線の線路の間に外堀がわずかに残されています。
ここの土塁は護岸工事がされていなくて、当時のままなのかなと思いました。


本当に遊具がたくさんあって、娘は1時間半くらい遊んでいたのではないでしょうか?

ブラジル人の多い大泉町だけあって、公園の注意書きに併記されている言語は英語ではありませんでした(ポルトガル語?)。

親は親で、子供は子供でとても楽しく過ごすことのできた城跡でした。


御城学。