武熊城(常陸国・茨城県水戸市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

今回は、現在の茨城県水戸市にあった城、武熊城です。



武熊城跡は現在、水戸市竹隈市民センターとなっていて、水戸駅北口から茨城交通バスに乗って柳町二丁目バス停で下車すると、徒歩2分くらいで行くことができます。


水戸駅北口。
JR東日本の常磐線(上野東京ライン、水戸線直通含む)と水郡線、鹿島臨海鉄道の大洗鹿島線が乗り入れています。
茨城県の県庁所在地である水戸市を代表するターミナル駅だけあって、かなり立派です。


武熊城跡の碑。
この碑しかここが城跡だったことを示すものがないのが非常に残念です。
側面に城の歴史が簡単に書かれています。

武熊城は延文年間(1356~1361年)に常陸大掾氏の一族・石河望幹が築城したとされています。
1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で江戸通房が水戸城を攻め落として居城とすると、武熊城は水戸城の支城となります。
1590年(天正18年)に水戸城が佐竹氏によって攻め落とされて江戸氏が滅亡すると、佐竹氏の一族・東義久が武熊城に入ります。


水戸市竹隈市民センター。
先程の碑は、市民センターの敷地の一角にあります。
こちらの市民センターでは各種証明書の発行の他、地域コミュニティ活動の支援、生涯学習活動の推進などをおこなっています。

1602年(慶長7年)に佐竹義宣が出羽国秋田へ移封となると、武熊城は水戸徳川家の支配下となります。
1651年(慶安4年)に柳堤を築造の際に採土され、武熊城は消滅しました。

では、非常に短いですが、この辺で。
本当に遺構が何にもないので残念ですが、これも時代の流れですので仕方ありませんね。


御城学。