島崎城(常陸国・茨城県潮来市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

暑いですね。皆さんはお盆休みは何をして過ごしていますか?
おちおち帰省もできず、リモート帰省ですませている方もいるのではないでしょうか?

暑すぎて、ついにハンディファンを購入しました。


ストラップがついてて首からも下げられるので、便利です。

さて今回は、現在の茨城県潮来(いたこ)市(旧行方郡牛堀町)にあった城、島崎城です。
6年前のブログを再編する形でお送りしたいと思います。

潮来市は、2001年(平成13年)に行方(なめがた)郡潮来町が牛堀町を編入する形で合併してできた市(3万市特例)ですが、既に人口3万人を割り込んでいます。



島崎城跡は、JR東日本鹿島線(成田線直通含む)の潮来駅から北西へ直線距離で約3kmの所にあります。徒歩では1時間くらいみたほうがいいでしょうか。
2019年(令和元年)末頃に駐車場が完成し、車でのアクセスが格段に向上しました。


潮来駅。
JR東日本の鹿島線(成田線直通含む)が乗り入れています。
鹿島線は香取駅で成田線から分岐して潮来駅から茨城県に入りますが、全線が千葉支社の路線となっています。
高架駅ですが、あまり設備投資がされていない印象のローカル駅です。
2020年(令和2年)3月より簡易Suica改札機が設置されました。
隣接する観光案内所でレンタサイクル(1日500円)が利用できますので、レンタサイクルで行くというのも1つの手かもしれません。


島崎城跡の駐車場。
2004年(平成16年)に廃校になった八代小学校の児童が農業体験していた畑の跡地を利用して整備したようです。
結構な台数が停められますが、1台も止まっていません。
根古屋という案内表示もされていますので、ここに屋敷などがあったのでしょうか。


島崎城址の碑と御札神社の古面の碑。
駐車場から徒歩数分、登城口の手前にあります。
民家に隣接している感じですので、突然立派な石碑が出てきてビックリします。
御札神社の古面というのは、本曲輪に建つ御札神社に社宝として伝えられている5つの面をいい、室町時代のものといわれています。


水堀跡。
先程の石碑のすぐ前にあります。
え、ここ普通の用水路じゃなかったんだ・・・(汗)
前回訪問した時には完全にスルーしてしまっていました・・・。


登城路。
左側は土木建築系と思われる会社の敷地となっていますので、紛れ込まないようにご注意ください。


真っ直ぐ進めば登城路、右側に行くと御札神社の参道に行くことができます。
ということで、ここは真っすぐ進んでいきましょう。


とても分かりやすい案内板がいたるところに設置されていて、今自分がどこにいるのかをすぐに確認することができます。

島崎城は、1191年(建久2年)に常陸大掾氏の一族である行方宗幹の二男・高幹が築城し、島崎氏を名乗ったといわれています。


腰曲輪。
前回は草ボーボーだった記憶しかありません。

その後、島崎城は代々島崎氏の居城となり、鹿島・行方地域を代表する城となります。


虎口。
右に行けば水の手曲輪、左に行けば帯曲輪があります。
左の帯曲輪方面へ進んでいきましょう。


帯曲輪。
先程の腰曲輪よりも一段高いところにあります。
以前はこの辺はかなり草木が生い茂っていて侵入できませんでした。


空堀。
右側が八幡台、左側が物見台です。

南北朝の動乱の際、島崎満幹は北朝側に属して小田氏らと戦います。


空堀をさらに進んでいくと・・・畝堀??
堀底道を歩いていてすごく違和感があって、堀底をよく見ると畝のような地形がみられます。
本当は畝堀じゃないのかもしれませんが、いや、でもこれは畝堀に違いないという気持ちが非常に強いです。


坊主曲輪。
ここには僧侶でもいたのでしょうか?


物見台。
すごく見晴らしがよさそうでしたが、上に登る道を見つけることができませんでした。


3曲輪。
草木が生い茂っているのと鉄塔が聳え立っているのとで、これ以上奥へ行くのは止めて引き返すことにします。
鉄塔曲輪と名付けることにします(笑)


水の手曲輪方面に向かう虎口。
左右に立派な土塁があり、防御性の高さを伺わせます。

1522年(大永2年)には、島崎安国が同族の長山氏を攻めて長山城を攻略します。
これによって島崎氏は同族の中でも飛びぬけた存在となり、以後島崎氏は「国人領主」と呼ばれる在地領主としての地位を固めます。


空堀。
馬出曲輪と東2曲輪の間にあります。


東2曲輪。
ここもちょっと草が多いですね。


馬出曲輪と本曲輪の分かれ道。
左が馬出曲輪、右が本曲輪です。
まずは左の馬出曲輪へ行ってみましょう。


馬出曲輪。
随分と広い馬出ですね。
だから馬出曲輪なのでしょうか(安易)。
ここに兵士がたくさん詰めていたのでしょうね。


本曲輪に入る虎口。
これも左右の土塁が本当に高いです。
背後の馬出曲輪から大勢の兵士が襲ってくると思うと・・・。

1591年(天正19年)に常陸国の所領を安堵された佐竹義宣は、常陸国の支配を確立するために鹿島・行方両郡の領主たちを花見と偽って常陸太田に招き、全員を謀殺しました(南方三十三館の謀殺)。


本曲輪。
御札神社の境内となっています。
潮来市HPを見ると、水戸藩の開基帳では島崎城を築いた際に城の鎮守として崇拝したとされていますので、島崎城築城とほぼ同時期に建てられたのではないかと思われます。


水の手曲輪。
この曲輪には大井戸があって、城の貴重な水源ということで水の手曲輪となったのではないかと勝手に想像しています。

これにより島崎氏は滅亡し、城主の島崎義幹を失った島崎城は廃城となりました。


大井戸。
水の手曲輪の端っこにある巨大な井戸です。
今ではあまり水も溜まっていませんが、落城の際には黄金の鳥を投げ入れたと伝えられています。
何?黄金の鳥って!!???


水の手曲輪と本曲輪の間の空堀。
中々立派ですが、地形が崩れちゃっててすぐ曲輪と同じ高さになってしまいます。


枡形虎口。
案内表示はあったものの、微妙にイメージが掴めず・・・(汗)
位置的に搦手口の枡形ですかね?


御札神社の参道。
とても急な階段ですが、現在は通行禁止となっていて、迂回路(登城路と分岐する道)を通って正面に見える鳥居のあたりまで行くことができます。
そこから先は階段を上っていくことになります。

6年前に訪問した時とは比べ物にならないくらい綺麗に整備されていました。
広さが2倍になったような、そんなイメージです。
おうちごはんがメインになって、グルメ情報がありません(苦笑)

潮来市のグルメ情報、お待ちしております。
では。

御城学。