水戸城(常陸国・茨城県水戸市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

おしろまなぶ の お城を学ぼう

訪問したお城について書いていきます。

今回は、日本100名城の1つ(14番)にも選ばれている、水戸黄門で有名な水戸徳川家の居城、水戸城です。

2011年(平成23年)の東日本大震災後に修復を受けたところ、2020年(令和2年)に復元された大手門や二の丸角櫓といったところを再構成してご紹介します。

また、水戸城は第二次大戦前に天守(三階櫓含む)が現存していた城で、外観復元含め唯一天守が再建されていない城でもあります。



水戸城跡は水戸駅北口から徒歩5~10分くらいのところにあります。
ざっくりと徒歩5~10分くらいといいましたが、広範囲に点々と遺構が残ってますので、あちこち歩いて見て回る形になるかと思います。


水戸駅北口。
JR東日本の常磐線(水戸線直通含む)と水郡線、鹿島臨海鉄道の大洗鹿島線が乗り入れています。
茨城県の県庁所在地・水戸市の中心駅ということで、かなり立派なターミナル駅です。
ただし、鹿島臨海鉄道はSuicaやPASMOなどのIC乗車券には非対応ですので、JR東日本と共用の改札内に入る際には注意が必要です。
また、乗換の際には簡易IC改札機にタッチしてから8番線ホームへ降りるのですが、7番線の上り特急電車に乗る場合はタッチしなくていいので、間違ってタッチしないように気を付けましょう。
水郡線も一部の駅を除きIC乗車券非対応ですので、こちらも注意が必要です。


水戸黄門と助さん格さんの像。
さすが水戸、といった感じの像が出てきました(笑)
水戸駅北口のペデストリアンデッキ上にあります。
私も小さい頃に水戸黄門をテレビで見たなぁと、遠い記憶を掘り起こしてしまいます。


二の丸角櫓(復元)。
ペデストリアンデッキから歩道橋を渡る途中で真新しい白い角櫓が姿を現します。
まだ外構などの細かい工事は継続中ですが、完成したら見学できるようになるのでしょうか??それともこの距離から眺めるだけ??


徳川光圀公像。
水戸駅から少し歩いたところにありますが、今度は「徳川光圀」と表現してきました。


水戸黄門誕生の地の碑というか、なんというか・・・。
上に御三階櫓が乗っているのがいいですね。


義公祠堂。
義公とは水戸光圀公のことです。
とにかく水戸光圀公を前面に押し出してくる形ですね。

平安時代末期に常陸大掾であった平国香の子孫・馬場資幹が築いた馬場城が、水戸城の始まりとされています。


柵町坂下門(復元)。
二の丸の南口にあたるこちらの門を抜けると、二の丸へ入る柵町門があったそうです。
近年の水戸城跡再整備により復元されました。
折角だから柵町門も復元してくれたらいいのに・・・。


本丸跡へ通じる橋。
現在、本丸跡は茨城県内随一の進学校・茨城県立水戸第一高校の敷地となっていて、この橋を渡らないと水戸第一高校に行けません。
ここまで防御性の高い高校は初めて見ました。
ちなみに、右側の看板には「県立水戸一高関係者及び史跡見学者以外の方の通行はご遠慮下さい。」と書かれています。
私は史跡見学者なので通行しますが、史跡見学者かどうかどうやって見分けるんでしょうね・・・???


橋の上から見た空堀跡。
水戸城本丸の空堀跡には水郡線が走っています。
たまたま、水郡線の列車が通過していきましたが、水郡線って非電化なんですね。

以後、馬場(大掾)氏の居城となりますが、応永年間に大掾満幹が江戸道房が敗れ、江戸氏の城となります。


薬医門(移築現存)。
戦国時代に建てられたと推定されています。
長らく城外に移築されていたため、この城門のあった場所ははっきりしないようですが、本丸表門だったと考えられています。
ちなみに、本丸は江戸時代には倉庫として用いられていたそうです。
薬医門や水戸城跡については↓↓
https://www.mitokoumon.com/kankou/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%9F%8E%E5%9D%80%EF%BC%88%E4%BA%8C%E3%81%AE%E4%B8%B8%E5%B1%95%E7%A4%BA%E9%A4%A8%EF%BC%89.html


杉山門。
水戸城への南北の登城口だったそうです。
こちらも近年の水戸城跡再整備により復元されました。

江戸道房は馬場城を大改修し、7代にわたってこの地を支配します。


二中見晴らし台の入口。
水戸市立第二中学校の敷地脇に見晴らし台への入口があります。
9時~16時半までは解放されていますので、興味のある方は時間内に入ってみてください。


見晴らし台からの景色。
とてもいい景色なんですが、正面の木が阻んできます(笑)


茨城県立水戸第三高校。
元々は女子高として設立され、その後も事実上の女子高としての歴史を歩んできましたが、近年は男子生徒も受け入れているそうです。
二の丸御殿や御三階櫓はこの水戸第三高校から茨城大学付属小学校・幼稚園の敷地にまたがっていました。
水戸第一高校みたいにそこだけ見学させて欲しいですが、まあ、現物が残っていないので難しいところではあります。
せめて石碑を設置してどこにあったかだけでも・・・。


水戸城跡の大シイ。
佐竹氏の時代から自生しているといわれて、水戸市指定の文化財にもなっているこちらのスダジイ、かなり巨大です。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、佐竹義重・義宣父子は馬場城を攻めて江戸氏を追放し、太田城から拠点を移します。


水戸城跡二の丸展示館。
旧彰考館跡に建つ展示施設で、水戸城の歴史や発掘された瓦などが展示されています。
無料で入れますが、氏名やどこから来たかを台帳に記入する必要があります。


大日本史編纂の地の碑と彰考館跡の碑。
二の丸展示館に隣接する水戸第二中学校の校門前に設置されています。

関ヶ原の戦いの際に佐竹義宣は西軍についたため、1602年(慶長7年)に出羽国久保田へ転封となります。


茨城大学付属小学校・幼稚園。
茨城師範学校跡の石碑がどどーんと設置されています。
敷地の奥では二の丸角櫓の工事が進んでいて、工事車両が出入りしています。
完成したら見学させてもらえないでしょうかねぇ・・・。


大手門(復元)。
2020年(令和2年)2月に復元工事が終わり、通行できるようになりました。
真新しい綺麗な大手門に若干の違和感はありますが、そのうちいい感じになってくるのではないでしょうか。
私の家の門もこういう門にしたかったのですが、土地と資金が絶望的に足りないので断念しました(笑)
詳しくは↓↓
https://www.city.mito.lg.jp/001373/001374/0/bunkazai/p021192.html


大手橋。
大手門復元に伴って歩行者専用の橋となりました。
以前は自動車も通れる普通の橋だったのですが、復元工事によって通れなくなりました。
道路を潰してでも復元するんだ、という強い思いを感じました。

家康の五男・松平(武田)信吉や家康の十男で紀州徳川家の祖・徳川頼宣が一時城主となった後、1609年(慶長14年)に家康の十一男・徳川頼房が城主となり、以降、水戸城を居城として御三家・水戸徳川家が代々この地を治めました。


大手橋の下は二の丸と三の丸の間の空堀跡です。
現在は道路になっています。


旧弘道館の入り口。
初めて訪問した時は東日本大震災の影響で建物の一部が損壊して、庭園のみの公開でした。
2014年(平成26年)に全面復旧し、耐震補強もおこなわれています。
弘道館については↓↓
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan.html


弘道館。
水戸藩の藩校で、水戸藩主・徳川斉昭によって開設されました。
学問と武芸の文武両道が重視され、多くの藩士やその子弟が学びました。

佐竹義宣は馬場城を近世城郭へと大改修を施すとともに、水戸城と名を改めました。


東日本大震災で被害にあった当時の弘道館。
壁が崩れるなど甚大な被害を受けているのがよく分かりますね。


弘道館鹿島神社。
三の丸跡にあるこちらの神社は、1857年(安政4年)に水戸藩主・徳川斉昭によって創建された神社で、常陸国一之宮の鹿島神宮から御祭神の分霊を祀っているそうです。


鹿島神社拝殿。
こちらの建物は1974年(昭和49年)の第40回伊勢神宮式年遷宮の際に、神宮内宮の別宮の1つ・風日祈宮の旧殿一式を譲渡されて移築したもので、水戸市指定文化財になっています。


北柵御門(復元)。
弘道館の北側の門で、南側の門とともに教員と役人のみが通行していたそうです。
門の向こう側は食い違い虎口となっていて、一角には監視用の番所が置かれていたそうです。
弘道館ってスゴい防御性の高い藩校だったんだなと思いました・・・。


水戸市水道低区配水塔。
鹿島神社や弘道館とは道路を隔てた反対側にある配水塔で、水戸市街の低地部分に給水するために1932年(昭和7年)に造られたものです。
1999年(平成11年)まで配水塔として用いられていたそうで、1996年(平成8年)には国の登録有形文化財に指定されています。
和風な作りに統一されている水戸城跡に突如として現れる欧風の建物は、一見異質な雰囲気を漂わせますが、これはこれで美しい建築物ですね。


三の丸空堀その1。
勝手に番号振ってます(笑)
三の丸の空堀は土橋で区切られるように3つ連続で並んでいます。
土橋自体は後世に設けられたものかも知れませんが・・・。

幕末には藩内で倒幕と佐幕とで意見が割れ、激しい抗争が繰り広げられたため、多くの建造物が損害を受けます。
また、三階櫓は1945年(昭和20年)の空襲によって焼失してしまいました。


三の丸空堀その2。
かなり巨大な空堀です。
水戸徳川家の水戸城は石垣が用いられておらず、天守もない(御三階櫓を代用)ことから、他の御三家の城(名古屋城、和歌山城)と比べてショボい印象を持たれがちですが、この空堀は相当な規模ですよ。


茨城県庁三の丸庁舎。
1930年(昭和5年)に竣工した旧茨城県庁本庁舎で、1954年(昭和29年)に4階部分が増築されましたが、2011年(平成23年)の東日本大震災で被災した際に耐震補強とともに4階部分の撤去をおこない、翌2012年(平成24年)に建築当時の姿に復元されました。
1999年(平成11年)に現在の本庁舎が竣工してからは三の丸庁舎として用いられていますが、こういう歴史的な建物を大切に使っていこうという姿勢は素晴らしいと思います。
千葉県庁舎も旧庁舎を残して欲しかったなぁ・・・。


三の丸跡の一角。
奥の方に見えるのが土塁です。
結構な高さがあります。


茨城県立図書館。
旧茨城県議会議事堂を改修して図書館にしたそうで、本当に建物を大事にするところに感心してしまいます。


図書館の敷地脇に残る土塁。
めちゃめちゃデカいです。
三の丸でこの規模ですから、御殿や御三階櫓のあった二の丸はもっと厳重だったんじゃないかと想像を膨らませます。


三の丸空堀その3。
先程の土塁の裏がこの深さの空堀です。

水戸城跡の再整備事業もかなり進んだところで訪問してきましたが、二の丸周辺の景色は10年前とはかなり違いますね。
できたら御三階櫓も復元してほしいところではありますが、学校敷地内なので難しいところですよね・・・。

水戸城跡は敷地内に公共施設や学校が所狭しと立ち並んでいてなかなかイメージしにくいところはありますが、やはり徳川御三家の城だけあって相当な規模の城だったんだなと思いました。

再々掲となりましたが、これまでよりもボリュームがかなり増えました。
ではまた。


御城学。