〈前回のお話〉



「出ないで...」


翔くんが今にも泣き出しそうな声で言った。流されるままに抱き寄せられ、翔くんの鼓動の音をダイレクトに感じたら、おれの鼓動までどんどん早くなっていった。爽やかな香水とヘアワックスの人工的な香りが鼻を掠める。翔くんの腕の中でしばらくその温もりに包まれていた。


おれたちの側を行き交う人たちは、ちらりと視線を投げてくるけど、誰も言葉を発することなく足音だけを残して去っていく。都会の無関心の優しさ。日常の流れだけが何事もなかったように進んでいく。逃げたいのか、まだここにいたいのか、自分でもわからなくなっていた。



「電話の相手...松潤...でしょ?」



翔くんの優しい声が耳元に響いて現実に戻される。言い当てられたことで、胸の奥底にあった後ろめたさに気づいてしまった。



「ごめん……」



そっと腕をほどく。

翔くんの瞳が一瞬、揺らいだ。その深い色に引き込まれそうになりながらも、自分を押しとどめるように顔を背けた。「離れなきゃ」と、心のどこかで叫んでいたのに、足はまるで鉛のように重かった。それでも、どうにかほんの少しだけ後ろへと下がった。


こんな時に松潤のあの唇の感触を思い出してしまう。罪を犯したような気分で、翔くんの顔をまともに見ることができなかった。目が合えば何かに気づかれてしまいそうで、この鼓動の早さまでも裏切りの証のように思えて、ごまかすように言う。



「さっきからいろんな人に見られてる...」



「あ.....うん、ごめん」



沈黙が二人の間を通り抜ける。

しばらくして先に口を開いたのは翔くんだった。



「今日、久しぶりに会えて嬉しかった。智くん、最近忙しそうだったから」



名残惜しいように指先だけ触れ合ったまま、手を繋ぐわけでもない。



「…そうだね。おれも会えてよかった」


そう口に出した瞬間、思っていた以上に胸が痛んだ。翔くんの目元が、柔らかく細められる。まるでその言葉だけで満足したかのように。でもそれがかえってつらかった。全部、知られたくない。けど、全部、知ってほしい。矛盾する感情が喉の奥に溜まって、息がしづらくなる。



「…ほんとは、今すぐにでも連れて帰りたいくらい」



ぽつりと翔くんが言った。

冗談のように笑ってるけど、その目は笑ってなかった。



「え?」



「ううん、なんでもない」



「……翔くん?」



自分から呼んでおいて、何を言えばいいかわからない。名前を口にしただけで、また心が揺れる。


しばらく無言のまま立ち尽くすと、どこか遠くから電車の音が聞こえてきた。

このまま駅まで歩けば、きっと何事もなかったように別れられる。けれど、それが正解かどうかわからなかった。

鼓動がうるさくなって、耳の奥で響いていた。

松潤のこと、翔くんのこと、全部混ざって、答えが出せないまま、ただその場に立ち尽くす。




「じゃあ、俺、地下鉄だから。あの.....また連絡してもいい?」




そう言って、もう一度だけおれの顔を見る。



「....うん」



そう返事するのが精一杯だった。

じゃあね、と言って翔くんは振り返らずに人混みの中へと歩き出した。その背中が小さくなるたびに、胸の奥が締めつけられる。行き交う人の波に、翔くんの背中が飲まれていく。名前を呼びたくて声を出そうとするたびに、喉の奥が詰まった。言葉にしてしまえば、何かが変わってしまいそうで怖かった。けれど黙って見送るには、あまりにも胸が痛すぎた。



「……翔くん」



わずかに届くかどうかの声で名前を呼んだ。

でも、翔くんは振り返らない。そのまま人混みに紛れて、小さな影になっていった。

ぽつんとひとり残されたような気がして、目を伏せる。


秋の夕暮れは、こんなにも冷たかっただろうか。