銀だらの焦げ目と、誰かの残り香
出張帰りの新幹線、潤は智の顔ばかり思い浮かべていた。たった二日。それなのに、智のいない夜はあまりに長く、味気なかった。出張先で買った銘酒と、智が好きそうな珍味の入った紙袋を握り直し、潤はマンションの廊下を足早に進む。
しかし、自分の家のドアを開ける直前、櫻井の家のドアが静かに開いた。
「……あ」
出てきたのは、少し眠たげな目を擦り、髪を乱した智だった。
「智?.....何してんの、そんなところで」
「あ、潤。おけぇり。……いや、翔くんがひどい風邪引いちゃってさ。ちょっと片付けとか、看病してたんだ」
智はいつも通りふにゃりと笑ったが、潤の目は誤魔化せなかった。智の頬は微かに上気し、その指先がどこか落ち着きなく動いている。何より、智の身体から、自分以外の男の――あの都会的な香水の匂いが微かに漂ってきた。
「……看病? なんであんたが。それに……なんだよ、"翔くん"って」
「え? ……あぁ、ああ見えて家事とか全然ダメなんだもん。部屋もすごかったし。……名前は、なんか……呼びにくいからいいよって言われて」
「俺がいない間に、随分仲良くなったんだな」
潤の追求に智は少しだけ困ったように眉を下げた。潤の胸の中では、嫉妬と疎外感がじっとりと練り上げられていく。
「……なに?怒ってんの?」
「べ、べつに、怒ってねぇよ!出張行って疲れてんだよ!」
智は潤の顔を覗き込むと、ふふっと小さく笑って、潤の手からお土産の袋を取り上げた。
「あーぁ、そんな顔すんなって。……はら減っただろ?今日は、おれが潤に飯作ってやるよ」
*
智は丁寧に、前日から漬け込んでおいた銀だらを冷蔵庫から取り出す。さらには「潤の真似して炊いてみる」と、土鍋に火をかける。蒸気が上がり、お米が炊ける甘い香りが部屋を満たしていく。
智が焼き上げた銀だらは、ほんの少し皮目が焦げていた。茶碗に盛られた銀シャリは、不格好ながらも一粒一粒が輝いており、一口頬張れば優しい甘みが喉を通っていく。
「……どう?おいしい?」
智が箸を止めて、潤の顔色を窺う。
「……焦げてる。けど、うまいよ」
「よかった。……さびしかったよ、おれも」
智がさらりと言ってのけたその言葉に、潤の毒気が抜けていく。いつのまにか櫻井を「翔くん」と呼び、看病した智。けれど、こうして自分のために料理を作り、帰りを待っていたのもまた、智なのだ。
潤は無言で、銀だらの身を口に運んだ。西京味噌の深い甘みと、智の真心が染み渡っていく。
「明日、個展の最終日だったよね」
「うん」
「迎えに行くから寄り道しないで、待っててよ」
潤の独占欲をはらんだ言葉に、智は「わかった」とだけ答えた。
「……で、どうだったんだよ。あの人の風邪」
「ん? 翔くん? ああ、熱すごかったよ。ふらふらでさ、かわいそうになっちゃって」
「んで……何か変なことされたり、妙なこと言われたりしなかった?」
「変なこと?」
智は首を傾げ、天井を仰いだ。
「うーん……。部屋が汚いのはおどろいたけど。あ、お粥作ったら、すっごいよろこんで食べてくれたよ。完食してくれた」
「……あんた、あいつにお粥作ったのかよ」
潤の眉間に再び深い皺が寄る。あのエリートの塊のような櫻井が、智の手料理に顔を綻ばせている姿を想像するだけで、胃のあたりが焼けるように熱い。
「うん、潤みたいには上手く作れなかったけど。あ、でも、寝るまでそばにいてくれって言われて、ちょっと大変だったかな」
さらりと言ってのけた智に、潤は思わず身を乗り出した。
「……寝るまで!?ずっとあいつの隣にいたってこと!?」
「んー、どうだっけ。おれもねむくなっちゃったしなぁ」
「おいっ!はっきり答えろよ、何かされたのかって聞いてんだ」
「もう!なに!?ちょっ、鼻息あれぇよ!それより酒開けようぜ。せっかく買ってきてくれたんだからさ〜」
智はひょいと立ち上がると、潤が買ってきた銘酒をカウンターに置いた。
潤は結局、深いため息をつくしかなかった。
「……あんた、本当にわかっててやってんのかよ」
「っんだよ! おれはおまえとゆっくり飲みてぇだけだよ」
智は慣れた手つきで酒瓶とグラスを持つと、リビングのソファへと移動した。潤も導かれるようにその後を追う。並んで腰を下ろすと、智の体温がすぐそばで感じられ、潤の殺気立っていた心が少しずつ解けていく。
「……飲みすぎんなよ。明日、大事な日なんだから」
「わかってるって。ほら、飲むぞ」
智はそう言って、とくとくと黄金色の酒を注いだグラスを潤に手渡した。櫻井の部屋で何があったのか。結局、本当のところは霧の中だ。けれど、こうして自分の隣で穏やかに笑う智を、今はただこの場所へと繋ぎ止めておきたかった。
「……おけぇり、潤」
「……ただいま」
二人の夜は、銀だらの甘い余韻と共に静かに更けていった。
