額と額がそっと触れ合ったまま、ふたりはただ静かに息を整える。
世界はまだ、雨の音で満ちている。他にもう何も聞こえなかった。大野の指先が、櫻井のシャツの袖をつかんだ。その微かな力だけが物語っていた。
櫻井がゆっくり顔を上げる。
「……ホテル、来る?」
その問いに、大野はふと目を伏せた。
口元には、少しだけ苦笑が滲んでいた。
「あ、いや、別に……そういう意味じゃなくて……ほら、このままじゃ風邪ひくだろうし」
「ふふっ。うん、わかってる」
雨は少しずつ小降りになっていた。
「雨、止みそうだし....そろそろ帰ろうか」
「……もうちょっとだけ、いて」
再びそっと手を伸ばしてきた大野が、静かにそう呟いた。櫻井は何も言わずにその手を握り返す。そっと大野の手を引くようにして向き直り、一瞬だけ瞳を探ると、何の合図もなくふたたび唇を重ねた。
空が少しずつ明るくなってくる。濡れたアスファルトが太陽の光を返し、湿った空気の中で、ふたりの温度だけが確かだった。
櫻井の手が大野の頬に触れる。濡れた髪を指先がかき上げると、少し震える吐息が漏れた。
「.....ん」
大野の指先が服の上から背中をなぞる。シャツ越しに感じる体温が、遠ざかっていた時間を埋めていく。大野の唇は柔らかく、そして強く櫻井を求めていた。舌先がわずかに触れると、大野の指がぎゅっとシャツを掴んだ。
雨音に代わってふたりの呼吸だけが耳の奥に響いていた。
***
搭乗開始のアナウンスがしたが、櫻井はしばらくその場から動けなかった。
大きな窓の向こうの滑走路をただ眺めていた。
──あの日も、こんな朝だった。
4年半前。
大野がニューヨークに旅立った日。間に合うかどうかもわからないまま到着ロビーを駆け抜けてなんとか見つけた大野の後ろ姿。
"ほんと...は...行って欲しくないです。
けど、智くんの夢だから..."
背中越しに呟いたあの言葉に、大野はゆっくり振り返り、あのときと同じ静かな声で、笑って答えた。
"ありがとう。大好き"
信じたかったけれど、どこかで怖くもあった。
それでもあのときの櫻井は何も言わずにただ手を振った。
そして今ーーー
ふとポケットの中でスマートフォンが震える。画面を見下ろすと、短いメッセージが届いていた。

またね
たった一言。でも、彼らしい言葉の中に、あの日、雨の中で触れたあたたかさがすべて詰まっている気がした。櫻井はゆっくりと指を動かし、ひとことだけ返す。
また、会いに来ます

自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出てきた。
それは、どこかでもう一度信じている証だった。
保安検査場への入口に列ができ始める。名残惜しさよりも、心の中に残る確かなものが背中を押した。立ち上がって歩き出すとき、滑走路の先に小さな光が差していた。心のどこかにはまだ、大野の手のぬくもりが残っている。
ふと、振り返りたくなったけれどやめた。
別れではない。
また会えるから。
言葉なんてなくても、
あのときの瞳がそう言っていた。


