松楓殿(しょうふうでん)
数年前からのビジネスパートナーである池田さんに松楓殿を案内していただいた。
前日拙宅に池田さんが宿泊。早朝3時半起床。
雨の中West Branch Reservoir へ向かい5時から湖面にて釣りをした後、Catskill State Park 内の松楓殿を訪れた。
池田さんは1970年代にニューヨークに移住。
多くのビッグビジネスを手がけて来られ、現在は松楓殿のオーナーでもある。
数年前にビジネスパートナーとして一緒に事業を開始したのがきっかけで交流をさせていただいている。
松楓殿とは小生が説明するよりも、
http://shofuden.com/jp/ このウェブサイトのリンクをご覧頂く方が早い。
オズボーン時代からの管理人であるSteve に連絡をして、特別にゲートを開けてもらった。
松楓殿は日本国にとって非常に重要な歴史的な意味があるが、現在はプライベートプロパティのため一般公開はされていない。
21日にライオンズクラブのイベントとして内覧会が行われるそうであるが、そういう機会も稀である。
Steveと池田さんに、80エーカーの土地を隈無く案内してもらっているうちに、
今まで知らなかった高峰譲吉氏の功績、日本とアメリカの歴史が解きほぐされているようであった。
高峰譲吉氏が、このパレスで、どのように、振る舞っていたのか。
どういう生活をして、何を考えていたのか。
目を閉じて、100年以上前のライフスタイルが浮かび上がって来た。
日米友好の象徴となったワシントンの桜まつりの3千本の苗木の寄贈は高峰譲吉の発案と寄付によるものでこれと前後して2千百本の桜がニューヨークに寄贈された。
1904年に世界で初めて日本の楓がアメリカに寄贈され、この松楓殿に植えられた。
樹齢100年以上とも見える
2本のMaple を指差して管理人のSteveが教えてくれた。
この楓Maple tree が日本から最初にアメリカに渡って来た Mother Maple だよ。
ここから、アメリカ中に日本の楓が出て行ったんだ。
1904年に描かれた壁画が無造作に展示されている。
何気なく見る装飾品や建造物が100年以上の月日が経った歴史を物語っている。
オズボーン時代はスプリングが出ている池にトラウトを放流して、そこで釣ったトラウトを
客に振る舞っていたとも聞いた。
高峰譲吉氏の貢献した歴史的な出来事やそれによって世界に対する日本の印象がどう変わっていったか等の細かいことは
ここでは詳しく記載しないが、
高峰譲吉氏がこの土地で抱いた、
願望。決意。決断。 が、少なからず体感出来たプロパティの内覧が出来たことに感謝だ。
歴史が止まった空間が松楓殿にはあった。
描いたものしか手に入らない。
大きな物を描けば描くほど、ホライゾンは広がる。
80エーカーのパレスは、将来の自分にとってのピクチャーを描かせてくれた。
広大な土地。
静寂なる森林。
トラウトポンド。
熊の爪痕。
白人の管理人。
プライベートクラブ。
少しの時間だったけれど、池田さんのお陰で、高峰譲吉氏についての理解度を深めることができ、
如何に今の我々が恵まれているのかを再認識した。
100年前には、自動温水尻穴洗浄機は存在しないのである。
日本人は今は尻を拭くよりも、温水で洗うという誠に贅沢な習慣を身につけてしまった。
誰でも公衆便所に行って、尻を洗うことが出来る時代なのだ。
当たり前だのクラッカーだが、松楓殿には自動温水尻穴洗浄機はない。
高峰譲吉氏の時代に自動温水尻穴洗浄機を使ってた人はいない。
当時からビデェがあったかどうかは知らないが、
今でもアメリカでは全く自動温水尻穴洗浄機は普及していない。
便器の隣にシャワーがあるからシャワーを浴びればいいだけだからである。
日本の場合、シャワーがない時代が最近まであった。
風呂を沸かしてから、風呂に入る習慣があり、風呂が沸くまで汚い身体をそのままの状態にして待つ必要があった。
風呂に入る順番まで、家庭によって決められていた時代が長く続いた。
つまり、便器と風呂が別々に進化し続けていったのだ。
言い換えると、進化の過程が異なるのだ。
便器は便器で進化し、ビデェを便器にインテグレートした最新鋭のマシーンが市場に出た時は
驚愕のセンセーションが起きた。
風呂も乾燥機機能まで持った風呂に進化させた。
インベンションをするのは日本人は苦手かも知れないが、改善について日本人を超える人種はいないだろう。
しかしながら、高峰譲吉氏は1984年(明治27年)の消化酵素タカジアスターゼの開発と、1900年(明治33年)の外科手術における患者の生存率を飛躍的に高めた牛の副腎ホルモン、アドレナリンの結晶化に成功し、止血剤の開発、発明をした異例の日本人である。その他にも世界の医学界に多大な貢献をしている。
過去を思い出せば、オイルショックと呼ばれていた時代があった。
子供の頃貧乏だった実家では、トイレットペーパーがなく、
新聞紙を切って、両手でぐちゃぐちゃにして皺を作り、尻を拭いていた時代があった。
尻を拭くだけで、手が真っ黒になり、尻もまともに拭けない。
汲取式厠のため、新聞紙では水分を吸い取るキャパシティがないため、お釣りが返って来て、
尻をあげなければ顔面にまで飛んで来る事態も想定出来た。
あ、ダメだ。 また、being me (いつもの自分)になってる。
言いたかった事があってもどんどんと横道にずれて行く癖があるのを知っている。
プライベートに内覧をさせていただくことが出来る機会を頂いた事に誠に感謝すると同時に、
高峰譲吉氏の世界的な貢献度を少しでも知ってもらいたいがために、記載したのであるが、
つい全く関係のない便器論に到達してしまった。
高峰譲吉氏を知ろう。
以下、松楓殿のウェブサイトから、抜粋。
http://shofuden.com/jp/index.php
明治の息吹を受け、
メリエワルドで蘇生する松楓殿
ニューヨーク州サリバン郡メリエワルド。ニューヨーク市から北東へ車で2時間ほど由緒ある広大なリゾート別荘地の森の中に、松楓殿(しょうふうでん)があります。京都御所風寝殿造りをモデルとした荘厳な日本建築と庭園は、1904年(明治37年)のセントルイス世界万国博覧会で日本観のメインパビリオンとして建造されました。それは、開国後の日本にとって初めて、本格的な日本文化の粋を欧米に紹介する舞台となり、日本と世界の友好交流の象徴的役割を担う歴史建造物であったものです。
その松楓殿がなぜメリエワルドの地に移築されたか、どのように時代の変遷を経てきたかは、これまで広く知られることがありませんでした。しかし、アメリカで明治・大正・昭和そして平成という100余年の歴史を生きその風雪に耐えた松楓殿はいま、メリエワルドの森の中で高峰譲吉夫妻が抱いた日米交流の理念を、いま再び現代の国際舞台に蘇えらせようとしています。
松楓殿とセントルイス万博
いまから100余年前の1904年(明治37年)にかつてない規模で開催されたセントルイス万国博覧会への日本参加は、日露戦争を背景とした明治政府の英断でした。当時、米英からの日本支援と軍資金援助を得るため外債はっこうを実施した明治政府は、国力を挙げての万博参加を決定しました。高峰譲吉はアメリカにあって日本使節団の一員となり、その成功に尽力します。
万博での日本会場は、平安、室町、江戸それぞれの時代文化の粋を紹介し、大規模なパビリオンは金閣寺、あずまや、茶室、回遊式の日本庭園、芝居小屋、料亭などで構成されました。日本から渡った伏見宮殿下、松平正直男爵はじめ官民代表、職人、芸術家、芸人など3百人余が、訪れた欧米人賓客をもてなし驚嘆させました。日本会場は大盛況を呈し日本のイメージを大いに高めました。
明治政府は、万博終了後、メインパビリオンである京都御所風の寝殿造りの建造物などを高峰譲吉の功績に対し譲渡しました。高峰はこれを日米交流の象徴的舞台とすべく、巨額な私費を投じてメリエワルドの広大な別荘地に移築します。この「舞台」は、当事の枢密院顧問大鳥圭介により「松楓殿」と名づけられました。
松楓殿はその後、高峰が意図したとおり、日米政財界や学界のリーダーたちが集う場となり、1909年皇室から久邇宮両殿下もここを訪れ、輝かしい時代を経ました。
しかし、1922年(大正11年)、高峰譲吉が享年68歳で病いに没したのを機に、妻キャロラインは松楓殿を手放しました。
アメリカ人に守られ100余年の風雪をしのいだ松楓殿
日米及び国際交流の舞台として高峰の意思を継承
高峰譲吉博士の没後、日本政府にも在留邦人にも忘れられていた松楓殿は、証券格付け会社で知られるムーディーズ・インベストメント社創業者一族がオーナーとなり、アメリカの名門家の手によって守られ、先の大戦を挾む厳しい歳月を耐えていました。そして戦後のオーナーであったオズボーン家の「日本に返したい」との篤志により60余年ぶりに1984年松楓殿は日本側の手に戻り、2003年まで日本文化財団の手で管理・修復が進められてきました。
松楓殿を舞台として、日米交流のさきがけと称えられた高峰博士の理念と実践は、国際社会の一員として世界平和への貢献と期待が高まる現代日本に、具体的な指針を示しています。
松楓殿は国際交流の象徴として明治政府によりアメリカに贈られ、高峰博士により日米友好の舞台として実践的に活用され、大戦後はアメリカ人の手で守られてきました。日本にとって国際交流の舞台づくりが緊急の課題であるいま、高峰譲吉が掲げた日米交流の理念を改めて現代に問い、メリエワルドの松楓殿を国際交流の舞台として活用していくこと――松楓殿復興と開発に着手したSho Fu Den, LLC.の目標はここにあります。
時空を超え、高峰家三代の再開へ
高峰家の離散を経て、アメリカでタカミネ姓を名乗る者は今日、ロサンゼルスで開業医として活躍している高峰譲吉三世だけになりました。譲吉三世は1958年と84年に、金沢での高峰譲吉博士・顕彰催事の祈りに訪日していますが、祖父の偉大な存在からは独立した人格として、自然な姿勢で自らの道を歩んできました。
譲吉三世は、80歳を超えた現在も臨床医として日々直接患者に接し、献身的・誠実な医療活動で人望を集めています。診療以外にもエイズ、麻薬問題などに取り組み、またボランティアでホームレスの子供たちのために時間を割くなど、医師の立場を超えた社会参加にも尽力してきました。
市井の人間として偉大な祖父との比較を避け、医師という天職に打ち込む彼の謙虚な生き方はむしろ、祖父・高峰譲吉との血のつながりを濃く感じさせるものがありました。高峰博士が、数多く日米交流の場で私費を献じ、労を取りながら、自らは表に立たずその成果に満足した性向に、譲吉三世も呼応するかのようにも見えます。
松楓殿復興をめぐる今日の劇的な展開を背景に、譲吉三世は一族最後の末裔としてニューヨーク・ブロンクスのウッドローン墓地にある祖父母・譲吉とキャロライン、父・襄、叔父・孝(エーベン)が眠る高峰家の墓地を訪れ、また幼時の記憶が残るメリエワルドの松楓殿を再訪しました。譲吉三世は、松楓殿復興を契機とする祖父の日米交流理念の継承を大いなる遺産として、新たな使命とアイデンティティに目覚めました。
明治期の国際人として
日米の架け橋となった高峰譲吉
化学者、高峰譲吉博士の功績について広く知られるのは、1984年(明治27年)の消化酵素タカジアスターゼの開発と、1900年(明治33年)の外科手術における患者の生存率を飛躍的に高めた牛の副腎ホルモン、アドレナリンの結晶化の成功です。この二つの偉大な開発はアメリカでなされ、今日でもなお、世界の医学界へのノーベル賞級の貢献として評価されています。
このほか、人造肥料やウイスキー製造における高峰式醸造法の発明など、高峰譲吉は化学者として、また実業家として、世界的な名声と巨万の富をアメリカで得ました。ニューヨークの彼の本宅にはアメリカの名門・名士たちが集い、ロックフェラー、モルガン、カーネギーなど当時の大財閥との交流も深かったといいます。
高峰譲吉は、加賀藩の典医の長男として生まれ卓越した学識と洞察力を養い、アメリカに雄飛し激動期日本を近代化へと導き、世界に堂々と相対した大きな存在でした。
一方で、彼はアメリカ人キャロラインと結婚し子供をもうけ、アメリカに生きた日本人でした。まだ日本人が海外に渡ることが希有な時代、日本人のこころと誇りをもってアメリカに渡り、日米両国をこよなく愛した先駆者的日本人でした。さらに高峰譲吉について特筆されることは、化学者として医学の進歩に寄与するかたわら、アメリカにあって国家間レベルでの交流促進に貢献し、今日なお鮮やかな高い日米友好理念を掲げ、相互理解・友好発展に尽力したことです。
そうした彼の横顔は意外に知られていませんでした。しかしいま、メリエワルドの松楓殿をめぐる時を超えた日米の邂逅を契機に、彼が1世紀をさかのぼり日米相互理解に尽力した日本人であったことが明らかにされつつあります。
ニューヨークに住んだ高峰譲吉は、今日のニューヨークの2大日系組織である「日本クラブ」(1905年/明治38年)、「ジャパン・ソサエティ」(1907年/明治40年)も創立しました。日米間の相互理解を深め、在留邦人の地位向上を図り、民間交流の場をつくる――高峰譲吉の理念は両組織により具体化され、脈々と受け継がれ、現代ではそれぞれもっとも有力な在米日系団体として、日米交流に大きな役割を担っています。
医学への貢献に劣らず、明治期の国際人・高峰譲吉が永く後世に託した大きな文化的遺産だと言えるでしょう。
高峰博士の日米交流面での貢献は、アメリカで得た財力と名声をもってこそなし得たことかもしれません。しかし彼自身は陰の功労者にとどまり、公けにその貢献を喧伝されることは少なかったのです。その一例として、1921年(大正10年)のワシントン平和会議での渋沢栄一を団長とする日本実業界・官界代表団の支援、また1911年(明治44年)の東京市長・尾崎行雄を表に立ててワシントンに寄贈した桜の苗木があります。
日米友好の象徴となったワシントンの桜まつりですが、3千本の苗木の寄贈は高峰譲吉の発案と寄付によるものでした。これと前後して、高峰博士により2千百本の桜がニューヨークに寄贈され、高峰博士の本宅に近く代、24,25代合衆国大統領となったグラント将軍墓碑周辺のハドソン・リバーパークに根を下ろしています。こうした事実も、日本ではあまり知られていません。
“アメリカの中の日本、”その光と陰
アメリカ東部屈指の高級別荘地キャッツキルの麓に100年以上前に創設された名門「メリエワルド・クラブ」。高峰譲吉は、義理の妹の縁で購入した私有別荘地5千エーカーの開発とクラブ創設に深くかかわり、自ら別荘地帯入口部分の広大な土地を所有、クラブ会員になりました。当時2千エーカーと言われた高峰の土地はその後徐々に分譲されましたがそれでも現在約100エーカー(12万坪、40万平方メートル)を有し、松楓殿が建っています。
1984年、松楓殿とその敷地がそれまでの所有者であったオズボーン家の篤志により、米国のNPO日本文化財団に返還されたことを機に、数年に及ぶ松楓殿の修復作業が始まりました。その過程で、この松楓殿に秘められた興味深い歴史が、次々と明らかになっています。2003年に現Sho Fu Den, LLC.に受け継がれました。
松楓殿とセントルイス万博、松楓殿と皇室・日本政府、松楓殿とアメリカ財界人・・・・高峰譲吉が日本から譲り受けた松楓殿をめぐる日米交流史の広がりには、現代の私たちの目を開かせるものがありました。しかし中でも、高峰譲吉とその一族三代・百年にわたる家族史は、松楓殿の変遷と符合しつつ、“アメリカの中の日本”を映し出す年代記とも言えるものでした。
高峰譲吉は1887年(明治20年)、アメリカ南部の良家ヒッチ家の長女キャロラインと国際結婚しました。明治期の化学者、官吏、国際派知識人として日本の近代化、工業化に指導力を発揮した高峰博士でしたが、日本を超えた世界的な化学者、実業家、さらには日米交流の先駆者として道を開き、アメリカで彼の才能を開花させ成功に導いた陰には、妻キャロラインとヒッチ家の支援もありました。
高峰夫妻は、襄(譲吉2世)と孝(エーベン)の二人の息子をもうけました。長男の襄は、裕福な生活を背景に自由奔放に人生を駆け抜けます。次男の孝は内向的で地道な化学者の道を歩みます。対照的な性格を映しながら、二人の人生はまた運命的なものがありました。
襄は1930年、享年43歳で不慮の死を遂げています。孝は兄の死後、譲吉の財産と研究所を引き継ぎますが、譲吉亡き後の一族の斜陽化を止めるすべもなく、また日系2世としての厳しい時代環境を耐えながら人生を送ります。大戦終了後の1953年、彼は日系人にも許された待望の米国市民権(ニュージャージー州で第1号)を得ますが、その6ヶ月後、63歳で他界しました。
長男襄と妻ヒルダの間には、譲吉3世とキャサリン・ユキの二人の子供がいました。襄に先立たれたヒルダは再婚し、6歳の譲吉3世と7歳のキャサリンは、やはり再婚することになった祖母キャロラインとともに、アリゾナへ移住することになります。1930年代、アメリカで対日感情が悪化した世相を背景に、日経の絆を彼らがどのように受け止めて時代を生きたか、想像するに難しくありません。
アメリカの高峰家は、このようにして松楓殿を離れ、高峰譲吉博士をめぐる輝かしい表舞台からも引いていったのです。