テット・ド・モワンヌ~花びらチーズの誕生~ | caseus-1201のブログ

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 スイスのチーズと言えばラクレットとを思い浮かべる日本人は少なくない.だろう。

 しかし、スイスのチーズ文化はもっと奥深く、、その数も多い…

 そんなスイスの日常的に食されるチーズの中でも、特殊な形状をしたチーズがある。

 

 テット・ド・モワンヌだ!

 では、このチーズが生まれてから現代にいたる物語を探っていこう!

 【テット・ド・モワンヌ-Tete de Moinne

Tete de Moine aop
 "Tête de Moine"という名のチーズが知られるようになったのは1790年だが、このチーズの歴史はもっと古い。
  テット・ド・モワンヌとは、「Tête=頭、Moine=修道士」という名だけあり、その起源は修道院と深く結びついている。
 
 その起源となるのがベルレイ修道院だ。
 
 1136年スイスのベルンにベルレイ修道院が設立された。そして、1192年にチーズに関するベルレイ修道院のことを記した文書が残っている。
 その記述の中で、「とある不動産の年間賃料を修道院で作られたチーズで支払っていた。」とある。
 
 ベルレイチーズに関して書かれた最古の記述は1628年のものである。「このチーズは、その国の最高のハーブや植物から採れる、非常に脂肪分の多い良質なミルクを使って作るように、」と書かれている。
 
 しかし、19世紀のフランス革命のあおりを受け、修道士たちが修道院を追い出されてしまった。
 それでも、チーズは旧修道院の領地のチーズ酪農場で生産され続けた。19世紀半ば、ベルレーの農夫A.ホフステッターは、この生産に新たな弾みをつけることに成功する。1856年、パリ万国博覧会で入賞し、その他の展覧会でも入賞を果たした。
  19世紀末には、いくつかの村のチーズ酪農組合が設立された。当時、「テット・ド・モワンヌ」は10トンほどがロシアまで輸出されていた。
FPV - Abbaye de Bellelay | FloFPV - YouTube
  
 とはいえ、まだまだ生産量は少なくヨーロッパでもそれほど有名なチーズではなかった。
 20世紀前半になって、農場でのチーズ製造から村での共同チーズ製造にシフトしていくが、1950年の総生産量は約27tであった。
 
 それが、劇的に変わる出来事があった。

 ジロールの発明である。

 
 1970年代に業界団体が設立され、さらにニコラ・クレボアジエによるジロールの発明によって生産量が急増し、1999年には1,560トンに達した。
 円盤の木の台とその中心にテット・ド・モワンヌの高さより少し長い針が設置され、その針を基点に回転する金属の板を差し込む構造になっている奇妙な形をしたこのジロールという機械が、まさにテット・ド・モワンヌを世界に知らしめることになる。
 
 ジロールの針に、上部を1cmほどカットしたテット・ド・モワンヌを針が中心を貫くように差し込む。そして、突き出した針に専用の鉄の羽を差し込み、回転させることで、チーズが薄くカットされ、徐々にひだができ重なっていくことで、なんと美しいバラのような形状になるのだ!
 こうして、テット・ド・モワンヌはその見た目の美しさから、チーズプラトーには欠かせないチーズとなっていく。
 
 さらにジロールの効果はそれだけではなかった。
 
 テットドモワンヌは、もともとスパイシーな刺激と濃厚な旨みがあり、大きなブロックで食すると刺激が強すぎ、敬遠する者も少なくない…
 それが、ジロールによって薄く削ることで、熟成した乳の風味やナッツのような香ばしい香りがより広がりながらも、口に含めばホロホロと溶けていくため、スパイシーな味わいはさほど強く感じない…そして、余韻にミルクの旨みが上品に残る…
 
 ジロールがなかった当時は、ナイフなどで薄く削って食べていたことがきっかけで、この画期的な道具が発明されたとはいえ、チーズ業界にとってはどれほど貢献したか図り知れない…
 まだ食べたことのない方は、ぜひ一度ジロールで削ったテット・ド・モワンヌを食べてみてほしい…
 またハチミツを上からかけるとなお、美味しくいただくとができるだろう。
 
 最後に笑い話の一つ...
 テット・ド・モワンヌのラベルには修道士がジロールを回している図があるが、その修道士の頭が剃髪してある。
 つまり、この剃髪している円形がちょうどテット・ド・モワンヌを輪切りにして上から見た形と似ていたことから、この名がついたといわれている。さらに、前述したように修道士がチーズを作っていた当時にはジロールは発明されておらず、この絵自体がフィクションである。
 まぁ、これもご愛嬌ということだろう。