フランスのロワール地方にセル・シュル・シェールというチーズがある。いかにも、舌を噛みそうにな名前だが、私の中では特別なチーズの一つだ。
いわゆるシェーブル(山羊乳)チーズのイメージを変えてしまった思い出のチーズだからである。
【セル・シュル・シェール -Selle sur Cher-】
~古代から続く歴史ある街〜
ジャンヌ・ダルクが1429年に歴史的勝利を得たオルレアン包囲戦で有名なオルレアンから南に約90km、アンドル=エ=ロワール県の県庁所在地であるトゥールの街から東に80kmのところに「セル・シュル・シェール」という街がある。
正直に言って、日本人には馴染みのない土地だろう。しかし、その歴史は古く新石器時代、青銅器時代にはガロ・ローマ人が定住した痕跡が残っている。その後も、ローマ街道につながれ、5世紀にはすでに修道院が立っている。
その後も10世紀ころには、トゥールから来るノルマン人の侵略を阻止するため城が建てられる。
アンリ4世の大臣であったサリーの弟、フィリップ・ド・ベテューヌが1604年頃にセル・シュル・シェールの城を購入した。それまでこの城は、彼の町にある裕福なサン・テュシス修道院の守護者であった。その後、新しい所有者が中世の部分を改修し、パヴィヨン・ドレと呼ばれる歓楽のための住居に改修した。
フィリップ・ド・ベテューヌの肖像画
現在のセル・シュル・シェール城
〜農家の女性の手によって造られた〜
そんな古い歴史のあるセル・シュル・シェールにシェーブルチーズをもたらしたの農家の女性と言われている。
以前、”シャウルス”という白カビチーズの章で書いたことがあるが、中世の農家は過酷であり、特に女性は休む暇もなく働いていた。そんな中でのチーズ造りは、あまり手間をかけられない…つまりは、出来立てのカード(乳に凝乳酵素を入れて固形分を集めたもの)を型に入れて脱水する作業に時間をかけれない。
必然的に水分量の多い柔らかいチーズになる。これが、滑らかでクリーミィな質感の舌触りを作る。また、熟成すると表皮から中心部分かけてとろけてくる。
このようなチーズは腐敗しやすい、しかしセル・シュル・シェールの平均気温は12.4℃であり、真夏でも最高気温が25℃ほどで最低気温が12℃ほどだ。そして、野菜などを保存する石造りの冷暗室などは湿度も温度も安定している。そこにチーズも一緒に保管されていることが幸いし、腐らずにスムーズに乳酸発酵が促される。さらに表面に灰をまぶすことによってより抗菌性を高めていた。
チーズの多様性というのもこういう偶然が重なり、生まれてくる。それがチーズの面白さであり探求したくなるのである。
はじめて、文献に登場するのは1887年とそれほど古くはない。AOCに認定されたのは1975年である。
その後1996年にはAOPに認定され、それから生産量は順調に増加し、1998年には531tであり、これは1996年と比べ30%以上の増加となった。そして、2014年には973.4tまでになった。
〜世界中で愛させるシューブルチーズへ〜
1990年代までは、地元やフランス国内のチーズショップでしか買えないようなマイナーなシェーブルチーズであったが、1996年のAOC認定を機に一気に生産量が増加し、輸出も増加した。
そしてチーズ消費量が少ないこの日本でも比較的手に入りやすいチーズとなったのである。
しかし、AOCに認定されただけで人気になったわけではない。やはり、その風味/味わいが世界中のシェーブルチーズファンの心を掴んだのだ。
私もその一人である。
まだ私がチーズの勉強を始めた頃、シェーブルチーズはそれほど好みではなかった…その原因は、その当時手に入りやすかった安価なシェーブルチーズを食べたときに感じたのが棋院している…
舌を刺すような酸味とざらつく舌触り、余韻に残る獣臭など、当時の私ではあまり美味しいとは思えなかった…(今ではジャムやドレッシングなどを合わせて美味しく食べることができると知った。)
そんな折に、今はもうなくなってしまったチーズ専門店の店主に、「それなら、このシェーブルチーズがオススです。」とすすめられたのが、【セル・シュル・シェール】だった。
半信半疑でそのチーズを購入し、食してみたところ、驚きの連続だった。
見た目は薄くグレーがかった表皮にところどころ白が入る斑模様、硬さは熟成によって様々だが、まだ若い時期は角がたっていてカットすれば、真っ白な生地がのぞく。
口に入れると滑らかな舌触りであり、酸味が柔らかい、ナッツような香ばしさもあり、山羊乳独特な獣臭はあまり感じられない。すーっと口から喉にかけてゆっくりと溶けていく。そして心地よいミルクの香りが余韻に残る。
「美味い!」
と叫んでしまいそうになった。この体験がきっかけにシェーブルチーズが逆に好きになってしまったのだ。
好き嫌いの多くは、一番最初に食べた時の印象が残り、2回目以降に食べるときに脳が勝手に判断して、好きか嫌いかを決めようとすることがある。食わず嫌いを克服するには、同じ食材/料理であっても一度頭を真っ白にし、初めて食べるときのような気持ちで臨まないといけない、と思う。
話がずれてしまったので戻すが、このチーズが熟成するとまた別の表情を見せる。
角が丸くなり、カットすれば外皮の部分がとろけており、中心部の白の部分と外皮近くのアイボリー色のきれいなツートンカラーになっている。
香りもやや山羊乳特有の藁や納屋の香りが現れる。
口に入れると舌触りは若いときよりもクリーミーになり、舌全体を包み込む。旨みが増し、ナッツやキノコの香りが鼻から抜けていく。酸味はもう感じられない、むしろ甘みを強く感じる。とにかく余韻が長く、その余韻だけでグラスワインを1杯飲めてしまうぐらいだ。
シェーブルチーズ好きにはこの熟成したセル・シュル・シェールをお勧めしたい。
合わせる飲み物もやはり同地域で作られているロワールの白ワインが良いだろう。
爽やかな酸味と完熟したグレープフルーツのような果実味あるものがよく合う。
この二つが重なり合ったときには、しばらく意識が飛ぶほどの幸福感が得られるだろう。
ぜひ少しでも興味を持った方は体験してみてほしい。
カゼウスで買える「セル・シュル・シェール」
相性の良いワイン