『ミッキー17』 | ポップ・ミュージックのトリコ

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流行音楽を聴きながら、人生を音楽で豊かにしたいと願う、私的でミーハーなブログです。

監督
ポン・ジュノ

ジャンル
アドベンチャー/冒険 SF

出演
ロバート・パティンソン  as  ミッキー
スティーヴン・ユァン
キャメロン・ブリットン
ホリデイ・グレインジャー
 
鑑賞方法
映画館 IMAX

 

なんだか事前情報で評判があまりよろしくない感じだったので心配だったのですが、やはり映画館はそれほどお客さんがいない感じでした。

ただ、それだけにゆったり観れましたね。

前週に観た『教皇選挙』は久しぶりに両隣の人が気になって肘かけ使えなかったので、しっかり今週は肘かけ使いました。

 

結論から言えば聴いていたほどジブリの意匠も強くは感じず、強いB級テイストを感じさせる娯楽大作でした。

なんだかノリはジェームズ・ガンの作品のようなバカバカしいコメディ色のが強い作品でポン・ジュノが思うように作ろうとしたら偉いさんからアメリカ人の観客はもっとアホやからわかりやすくしないと理解できないよ、とアドバイスを受けたような仕上がり。

きちんとポン・ジュノらしい階級社会の風刺のテイストが根底にはありますが、その入門編にあたるようなマイルドさでした。

 

いくらカンヌでの実績はあるとはいえ、ハリウッドの世界では1年生の彼だけに、初心に帰って映画作りをしたのでしょう。

ターゲットも若者向けに絞ったところからも、そのチャレンジ精神は伝わってきます。

ダークでシュールなテイストのジュブナイル作品、というのが狙った路線なのだと思います。

 

それだけにカンヌで受けそうな映画マニアも納得の世界観でうならせてきたポン・ジュノの作品群とは違うテイストです。

 

世界一おいしい柿ピーを作ったお菓子メーカーがモンドグランプリを受賞して、その流れで米国資本と組んでトリュフ入りの甘い柿ピーを作ってみた感じ。

”トリュフ”として参加したロバート・パティンソンはとてもいい仕事をしましたが、甘い柿ピーというチャレンジが少なくともリリース時にはあまり受け入れられなかった、という感じでしょう。

 

世間的にはポン・ジュノらしくない映画、ということを言われていますが、個人的にはとても面白く観れました。

そもそもクリエイターの難しいところは変わらずにいることと変わっていくことの両輪が必要なこと。

しかも、彼のように新進気鋭としての役割を期待される場合、成功した金脈を掘り続けることはクリエイターとしての”死”を意味することさえあります。

 

ポン・ジュノの作風の根底にある格差社会の描き方は、ジブリ作品と同様、マルクス主義に基づく、資本家と労働者という二項対立が下敷きになっています。

ところがいまや労働者は仕事すらまともにない危機に直面することも多く、労働力として搾取されるのではなく、消費者として搾取されるという新しい局面を迎えています。

要は騙されてまんまとだまし取られる舞台は厳しい労働環境ではなく、どんどん物価や消費税・関税があがる厳しい消費環境になってきています。

これでこの先起こるのは、平安時代に農民たちが国から与えられた農地を捨てて、荘園領主の元に農奴として囲われていった中世の再現ということになるでしょう。

デジタル化してサブスクリプションを支払いながら、デジタル的に私的企業にかこわれて生きるデジタル中世が始まる中では、今回のミッキーのように自分からこの抜け出せない仕組みに逃げるように入り込むしかなく、むしろマシな生き方として搾取される身分を自らが選び取ってしまう世界になっています。

ポン・ジュノはその時代の変化に合わせて、自信の持つ階級社会の思想そのものをアップデートさせているので、旧態依然とした”格差社会→抵抗→民主化”という思想ではもはや解決にたどり着けない現在社会におけるものの見方をしないと、映画の価値そのものを見誤ってしまう可能性があります。

 

本作ではそういう見方をすれば、ギリギリ”各社社会→抵抗→民主化”のフロー自体は踏襲しているので監督自体の立ち位置から見れば三幕構成的にはそれほど大きなテイストの変更はしていないと考えているのでしょう。

 

ミッキー17では一応荘園領主は倒され民主化されたところまでを描いていますが、大資本家がいなくなった後、星を開拓する資本がどのように供給されるのかについて言及されません。

これは労働力が労働者の持つ唯一の資本とされる思想にあって、そういうことでは解決できない圧倒的な資金が何をするにも必要となっている現代において結局大きな権力によって抑圧的に収奪しないと前に進めないという問題には触れていないジュブナイル向け作品であることが理解できます。

 

だからこそ大きなカタルシスを得られないモノローグによって物語は閉じられるのは、そうせざるを得ない部分もあるのでしょう。

 

むしろその先の問題にはポン・ジュノはこれから取り組む作品で向き合っていくことになるはずです。

この作品はそうしたポン・ジュノの作品群のエピソード1として作られた作品なのだと思います。