どんなときも。 | ポップ・ミュージックのトリコ

ポップ・ミュージックのトリコ

流行音楽を聴きながら、人生を音楽で豊かにしたいと願う、私的でミーハーなブログです。

あまりに悲惨な地震の被災状況を報道で目の当たりにして、何かを語る気さえ失いました。

地震により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。

ここで能天気に音楽のことを語る気も失せ、しばらく更新はしていませんでした。


この報道で蘇る阪神大震災の記憶・・・。

私は京都出身ながら、活断層の関係上、阪神大震災の折には、家じゅうの棚が倒れるぐらいの、揺れを経験しました。

当時、住居のせまさをカバーするために、6畳間の天井辺りにぐるっと取り付けていた棚に大きな段ボール一杯の荷物をのせまくっていた物置のような部屋に弟と住んでいました。

明け方、凄まじい揺れとともに目が覚めて、布団から体を起こした瞬間に、下から突き上がってくるような異常な振動。そしてその後、地震災害体験の車に乗っているような、信じられない横揺れが襲い、棚から重い段ボールが次々と頭上から落ちてきました。寝起きの上に、揺れのせいで、全然避けられず、同じように、頭に落ちてくる荷物にどうにもならない弟と目が合ったのですが、突然の出来事にお互いにそのまま次々に落ちてくる荷物に翻弄され、言葉も出ませんでした。

巨大な荷物の落下の中、「死ぬ」とおもいました。

漸く揺れがおさまり、荷物の山から抜け出すと、弟も無事。
家族の安否を確かめにキッチンへ行くと、キッチンは大きな水屋が倒れ皿の瓦礫の山になっていました。

ただどうにか家族は無事。
これはただ事ではない、とテレビをつけて確認すると、神戸で地震という報道・・・。
うそ? 震源が京都やない? じゃあ、神戸なんかえらいことになってるに違いない。そう直感したのですが、まだニュースは呑気な感じでした

瓦礫の山のような家の状況に中、父は会社に行くといいます。
私は、絶対電車は走って無いはずだと主張するも父はとりあえず出社すると言って出てゆきました。

その後、ニュースは次第に神戸の惨状を掴み始め、やがて、報道番組は戦場のような地獄絵図を映し出すようになっていきました。

結局、交通がマヒし、電車も動いていないため父が帰宅。とんでもない状態になった家を家族でかたづけていきました。

数日後、電話会社に勤務していた父は、まだ危険な神戸にインフラ復旧のため乗り込んでいくことになりました。

かつては愛宕山(京都の西側にある大きな山。東の比叡山とよく対比される)の頂上まで電話線を引いた経験もあるタフな父ですが、さすがに余震が続く神戸に向かうというのは、非常に心配でした。父が家を出るとき、さりげなく「ほな、行ってくるわ。頼むな。」と言ったのですが、その「頼むな」という言葉は非常に重かった記憶があります。
そしてその時、さらっと「はよお帰り。」と言った母の、まるで今日帰ってくるかのようなあっけない声のかけかたに、ああ、母も強い人だなぁ、と感じました。

後日、無事に帰ってきた父からは、救援で届く弁当が拠点に山積みで、交通網や運搬が不完全なためいきわたらず、テレビでは被災者が食べ物が届かないと言っているのに、「腐るから衛生上の問題もあるしどうぞ食べてください」と食べきれない量の弁当を前に言われ無力感を覚えた、とか、テレビではなかなか映せないし、カメラに向かって言いにくいから隠れがちだがトイレの問題が一番大きかった、と言っていました。とにかくトイレが水洗できないので、どこのトイレも排泄物で溢れていた、と。
あとは、それでなくとも寸断されてマヒ状態の交通が、混乱災害対策の車以外のヤジウマの一般人を含む個人の車が混じって余計に渋滞をおこしていたとも言っていましたね。

これ以外にも、父は色々と、報道されないけれど、実際に現地でおこっている様々な問題を、語ってくれました。

今回の災害でも、かつての私の父のように、被災された方を助けるために、多くの家族ある人々が乗り込んで、懸命に努力をされています。


かつて戦国時代に、名前を残したのは武士たちですが、武士の食糧を供給し続けたのは、戦乱の中、しっかり農作物をつくっていた農民ですし、武器調達や、資金調達を支え続けたのは商人でした。
また、武家にあって、重宝されたのは茶器でした。

復興に直接に支援することも尊いことですが、自分の生業に専念することも尊いことです。
学業だってそうでしょう。復興させる未来の日本にとっては今の学生の力が将来決め手となります。

1945年 太平洋戦争敗戦
  製鉄業の隆盛・太平洋ベルト地域への人口移動。
1973年 オイルショック
  
1993年 バブル崩壊
  グローバル化・失われた20年・東京一極集中化
2011年 東日本大震災
  原子力エネルギー産業の挫折。エネルギー不足に対応したエコロジー対策の産業化。
  復興事業により公共事業投資が増加。
  東京一極集中からの離脱。中国の興隆、西日本圏内のアクセス改善を受けて西日本経済の持ち直し。

およそ20年周期で、日本の産業・経済構造は変化していますが、そこには必ず大きな国難がありました。


おそらく日本で今を生きる多くの人にとって、この災害は人生で一番大きな出来事になるでしょう。
でもここからどういう未来を描くかによって、この災害の意味は大きく変わると思います。

敢えて「頑張れ!」とは言いません。
「頑張ろう!」という言葉で私の気持ちを伝えたいと思います。

このブログは音楽の話題に絞ろうと決めていますので、最後に。
どんなときも”槇原敬之


そしてちょうど阪神大震災の冬に初のヒット曲を出したシャ乱Qのつんくの第3子が無事出産とか。
シングルベッド”シャ乱Q
こんな時だって、ちゃんとこうして生まれくる命もあります。