日本からキリマンジャロ(タンザニア)へは、夜中の0時過ぎにカタール航空で羽田を出発しドーハまで約12時間、乗り継ぎは効率良く2時間程度、ドーハからキリマンジャロ空港までは約6時間の合計約20時間で到着(現地時間14時30分頃)。

キリマンジャロ空港というくらいだから、キリマンジャロが見えるじゃろと期待したが、厚い雲に覆われて何も見えんじゃろ。と、山が見えずに高まらないモチベーションを反映してか、つまらないダジャレしか思いつかない。

そこからキリマンジャロ南麓にある都市「モシ」まで車で移動。急ぎの行程であれば1泊で早速登山に出発となるが、僕はモシ市内のサル・サリネロ・ホテル(Sal Salinero Hotel)に2泊して長旅の疲れを癒し体調を万全に整える行程なので、今晩はのんびり過ごせるぜ。
Sal Salinero

ホテルのバーで、まだ見ぬ山「キリマンジャロ」に想いを馳せながら「キリマンジャロビール」を味わう。スッキリとした喉越しで意外と旨い。ほろ酔い気分で「明日はキリマンジャロが見えるかな~?」と浮かれていると、「天気予報はずっと良くない」という悲しいお知らせが耳に入る。
Kilimanjaro Beer

雨の登山なんか勘弁だ。アフリカでも「晴れ男」のジンクスが通用すれば僕もグローバル人材だwww。「キリマンジャロはきっと晴れるさ」と飲み続ける。それは「晴れ男」ではなく「能天気」だとも言う・・・


タンザニア2日目。

願い虚しく、今日も雲が厚くてキリマンジャロと対面できないが、出発は明日だから心配は無用だ。今日はモシから車で1時間くらいかけて山間部にあるマテルニ村に。疲労回復と足慣らしを兼ねて、キリマンジャロを源泉とする滝までの山道を歩く。
Waterfall

キリマンジャロの自然の恩恵を受けながら自給自足で生活するこの村は、キリマンジャロコーヒーの産地でもある。背の高いバナナの木の周りにコーヒーの木を植えることで、コーヒーを熱い陽射しから守る。さらにバナナの実は人々の食糧になり葉は堆肥になる。化学肥料や農薬を使わず、森の生態系に優しい伝統的な栽培方法が行われているのが特長だ。化学肥料を使っているコーヒー農園では年2回収穫ができるそうだが、オーガニックな栽培をしているこの村のコーヒーは年に1回しか収穫できないとのこと。

目の前で20分かけて焙煎したキリマンジャロコーヒーの香りはフルーティで、酸味のないすっきりした味は最高に美味しい。山はまだ見えないが、コーヒーのおかげで気分が高まってきた。

いよいよ明日からキリマンジャロ登山だ。

【実を摘んで、コーヒーになるまでのプロセスを映像にまとめたので、ぜひご覧あれ!】
https://youtu.be/bvbvC0IsRKg
僕は「山男」でも「登山家」でもない。

身体を動かすこと、自然の中で遊ぶことは大好きだけど、山はスキーで滑り降りるためのものでしかなく、登るという行為には全く興味がなかった。

初めて富士山に登ったのは2005年だから、今からちょうど10年前。富士山ガイドをしていた友人らと山開き前の6月末に登った。ハイペースの登山にも余裕でついていけたし、高山病等の症状も一切なかった。登るという運動自体が楽しいことを知ったし、今まで見たこともない景色は美しかった。

しかし、それから登山に夢中になったわけではなく、東京コミュニティスクールの行事として行われる登山の下見や本番のときに登る程度。アウトドア・アクティビティの一つというポジショニングだった。

2012年1月、ニュージーランド大使館で行われた講演会で三浦雄一郎さんに出会い、同年5月に三浦さんと一緒に初めてネパールに行く。そのときは登山ではなくお気楽なツアーだったのだが、初めて見るヒマラヤの山々の美しさに心を奪われたことは確かだった。

そして2013年5月、三浦さんが80歳で最年長エベレスト登頂を果たした際に、支援隊(といっても賑やかしのようなものだが)の一員としてエベレスト・ベースキャンプまで行く機会を得た。より近くに見る、エベレストをはじめとするヒマラヤの山々にも圧倒されたが、それと同じくらい三浦さんや、遠征隊メンバーの登山家たちは輝いていた。

そのとき初めて、自分も登山をやってみたいと思った。

僕は毎年、遊びの重点を決めている。時間に限りがあるから、やりたいことを全部均等にやっているとどれも中途半端になるからだ。2012年はマラソン、2013年はテニス、2014年は釣りの年だった。2015年は登山の年にしようと決めた。

目標をどこに定めるかを考えたとき、僕にはクライミングや雪山登山の技術も経験もないので、まずは体力勝負で登れる山にチャレンジしようという結論になった。エベレスト・ベースキャンプ(5,300m)に向かう途中に、高度順化も兼ねてカラパタール(5550m)には登っていたので、それよりも高いところに登りたいと思った。

そこで浮かび上がった山がセブンサミッツ(七大陸最高峰)のうちの一つ、アフリカの「キリマンジャロ」だった。山脈に属さない独立峰として世界一の高さを誇るキリマンジャロは、同じ独立峰である富士山を日本一の山として敬愛する僕にとっても、何か縁があるように感じる。

キリマンジャロについてWikipediaで調べると「大陸最高峰の中では登山がしやすい山であり、登山ルートも整備されているため、登山家でなくても健常者で万全の準備があれば、山頂までの登山を楽しむことができる。」との文言があった。「登山家でない健常者」とは僕にぴったりだ。

Wikipediaには続けてこう記述がある。「しかし、登山が容易であるとはいっても標高5000mを超える世界有数の高峰であることには変わりなく、高山病や事故により、毎年数名の死者がでている。」

まぁ、そうだろうと思いながらも、「既に5,500m以上の経験もあるし、高山病も全く問題なかった。体力的にも自信があるし、これから半年以上準備期間があるから、国内の山にたくさん登ってトレーニングを積んでおけば大丈夫だ。」と僕はたかをくくっていた。

とは言え、そもそも運動好きだから、それからのトレーニングは喜んでやっていた。仕事のときは三浦さんから教えてもらった重い靴(マッスルトレーナー)を履いて過ごし、早朝や休日のウォーキング時は、靴とアンクルウエイトを合わせた片足4.7kgの負荷をつけて1~3時間くらい速足で歩いていた。

丸1日休める日には山に登る。富士山、雲取山、丹沢山、両神山、御岳山など東京の近場にある山を楽しんだ。そんな中で、トレーニングの仕上げに登った穂高岳は、ことばでは表せないほど美しい景色と、登りごたえのある山頂までの道のりによって、キリマンジャロへの想いを強く後押ししてくれた。

さぁいよいよキリマンジャロだ!

穂高岳富士山
半月ぶりにウォーキングに出かけた。

2週間日本を不在にしたせいで仕事が詰まっていたこともあったが、帰国後なんだかんだ言って身体に疲れが溜まっているからと、しばしの休息期間を取ってみたのだが、なかなか体調が上がってこない。

「だったら動けばいい。」
方針転換して運動を再開することにした。

足が軽い。
いや、実際は軽いわけではない。
いつも通り、靴とウェイトで片足約4.7kgの負荷がかかっている。
しかし「あの時」と比べれば、この程度の足の重さは重いうちには入らない・・・

*****

「ポレポレ!(ゆっくりと!)」
ここに登ってくるまで何度もかけられた言葉を、ガイドのアントンが言わなくなった。
今の僕の歩みは、そんなことを言われなくても十分に遅い。
数歩歩けば息が切れ、呼吸を整えては再度歩き出す。ただその繰り返し。

一歩踏み出す足が異常に重たい。
片足5kg弱程度のウェイトの比ではない。
ちょっと息が切れると足は途端に動かなくなる。

夜中の12時から歩き始めて、まだ3時間くらいしか経っていない。
真っ暗闇の中、ヘッドライトとガイドの声だけが頼りだ。
いったいどこまで登ればいいのか、全く見当がつかない。

息が上がり、足が動かなくなって、その辺の岩に倒れるように座り込む。

「ぜーぜー」と息を切らしている僕に、アントンが「だめだ、こうやって呼吸するんだ!」とゆっくりと呼吸するように指示する。「わかってるよ」と心の中で文句を言いながらも、それをきっかけに改めて呼吸を整えると、なぜかすぐに復活する自分がいる。

「ちょっと休ませてくれ」と、また違う場所で座り込み、うなだれる。

少しの間じっとしていると、再びアントンが「寝るな!」と声をかける。「寝てねーよ、休んでるだけだよ」と心の中で文句を言いながらも、顔を上げて大きく呼吸を何回かして、「よし、行くぞ!」と空元気な声を上げて歩き始める。

同じことを何度も繰り返しながら、重たい足を一歩一歩踏み出していく・・・

*****

帰国してから半月の間、キリマンジャロの記憶を思い起こすことを避けてきたのかもしれない。
東京コミュニティスクールの子どもたちには話はしたけれども、それ以外はあまり多くを語らずにいた。

もちろんアフリカ最高峰であるキリマンジャロの最高地点まで到達した喜びもあるし、ほとんどは楽しく有意義な思い出だ。

だが、今「なぜ山に登るのか」という問いに対する答えを持たない自分がいる。
モヤモヤを感じている自分がいる。

でもやっと振り返るタイミングが来たのかもしれない。記憶を少しずつ呼び戻しながら、僕のキリマンジャロ登山についてもう一度考えてみたい。

次回は「僕がキリマンジャロに行こうと決めた理由」について話をしよう。

Jacalanta
「もうリタイヤしよう」

何度その言葉が思い浮かんだかわかりません。
今朝の、ひざ、足首、足裏、腕、肩などの痛みと動きの不自由さが、昨日の「東京・柴又100K」がいかにきつかったかを物語っています。

フルマラソンが42.195kmであるのに対して、その倍以上の距離がある100kmウルトラマラソンにエントリーしたのは3月初旬のこと。その当時の状態は、3月3日付けのブログ「トレーニング セカンドステージ」にも書かれているように順調そのもの。たまたまネットを見ていたら、東京・柴又で100kmマラソンがあることを知り、勢いでエントリーを決めました。

そこからは徐々に走る距離を伸ばして調整をしていけばサブテン(100kmを10時間以内で走ること)も可能ではないかと、勝手に思い込んでいました。(今考えれば、その時点から甘かったのですが)

ただその時に僕は大切なことを忘れていました。そもそも3月から4月中旬までは新年度が始まるにあたって業務が多忙になりトレーニングする時間が取りにくいこと、4月24日から5月11日までエベレストベースキャンプにトレッキングに行くことになっており、靴馴らしなども含め、走るためのトレーニングがあまりできない状況にあったのです。

結局10km走をできたのが、3月に3回、4月のエベレスト行き前に3回、そして帰国後10日間は疲労と業務多忙で全く走れず、その後なんとか3回走っただけ。思い起こせば昨年11月に富士山マラソンに参加した際も、10km単位では相当走っていたものの、20km以上を走ったのは河口湖にした見に行った際に27kmを走った1回だけ。フルマラソン以降は一度も20km以上を走らないままで100kmマラソンにぶっつけ本番ですから、無謀にもほどがあるような調整状況でした。

加えて、ヒマラヤ高所での低酸素状態に長くいることによる筋肉への影響も言われていたのですが、帰国後、実際に運動を再開すると、走ったときの踏ん張りなど身体のバランスをとる筋力が落ちていることに気づくととともに、疲れやすくなっていることがわかりました。

そのような練習不十分、体調不十分な中で参加を棄権するという選択肢もありましたが、「やったことがないことをやってみたい」という気持ちを抑えきれずに、ついに本番当日を迎えてしまいました。

それでも、スタートラインに立った時には「何とか行けるんじゃないかな」と甘く考えていましたし、走り出して25kmまではペースもフルマラソン完走時と比べてもかなり抑えた6分/kmペースで走っていたので、相当楽に走っていました。「このペースなら100km走れるんじゃないかな~。エイドでの休憩などを含めても11時間くらいで走りきれるかもしれない」と鼻歌まじりで走っていました。

フルマラソンやヒマラヤ・トレッキングの経験を生かして、一定の遅いスピードで走り続けるための、水分と食料の補給、そして呼吸による酸素補給もかなり意識して行ない、昨年のフルマラソンの時には25kmでやってきた壁(突然、足が止まること)もありませんでした。

しかし順調に30kmを越えた後に、心肺系の負担感や、気持ちにはまだまだ余裕があったのですが、その壁は突然現れ、脚を前に出すのが苦痛になりました。

しかも脚だけではなく、両腕も同様に鉛のように重くなってきたのです。明らかな筋疲労と言えばそうなのですが、それ以前にこの距離を走りきるだけの筋力が無かったとしか言いようの無いくらい、結局最後まで脚は思うように動きませんでした。

そこからは修羅場でした。フルマラソンでは一度も歩かなかった私が、34km地点からついに歩き始めました。35km地点から再び走り始めても全くペースが上がらず、そこから45km地点まで「これ以上速く走れないほど全速力で走っていただけど、これ以上遅ければ歩いているのと何ら変わりのない」速さで走ったり、歩いたりして、何とか46km地点にある折り返し地点のエイドまで辿り着いたのです。

エイドでは、貪るようにおにぎりや、漬け物、トマトやきゅうり、フルーツなどを食べ休憩も十分に取りましたが、一向に脚や腕の重さは解消しないので、途中棄権のことしか頭に浮かんできませんでした。

しかし、そこでエベレストベースキャンプで一緒に時を過ごした三浦雄一郎さん、そして遠征隊メンバーの顔が思い浮かびました。

「疲れたとか、やめるとか、三浦さんの前じゃ口に出せませんよ~!」と語る遠征隊メンバーの笑顔、そしてエベレスト登頂後のインタビューで「ものすごく疲れた、まるでフラフラの歩く幽霊のようだったよ」「何としてでも、生きて帰ろうとした」と下山の様子を語る三浦さんの顔が。

「支援隊としてベースキャンプにまで行った僕がここでリタイヤしては、三浦さんに顔を合わせることはできない!」という勝手な使命感が、ニョキニョキと伸び上がってきました。

さらに「疲労はあるけど、(ケガなどの)故障はない。さらに今のところはまだ制限時間内に関門をクリアできている」という状況で途中棄権する理由も見当たらず、「時間制限に引っかかってしまうのなら仕方がないが、何としてでもゴールにまで辿り着くよう、できる限りのことをしよう」と心に決め、走り始めました。

走り始めても筋疲労の状況は全く変わりませんでしたが、例えば肩から首にかけての痛みは、疲れて頭が前に下がっていることが原因だと分析し、頭も含めて突っ立った状態で走るフォームに変えたり、脚が上がらないすなわちストライドが伸びない状態では、ピッチを上げるしかペースが上がらないので、それを長続きさせるために、呼吸のリズムを普段のリズムとは変えて、それによってピッチをコントロールするなど工夫をすることで、何とか8分/kmのペースまで戻しました。

しかし、今度は足の裏に水ぶくれらしきものができ、それがどんどん大きくなってきて、足の裏がぶよぶよしてきました。痛みもありましたが、見てしまうと走り続ける気力を奪いかねなかったので、一切気にせずに走り続けることにしました。

江戸川沿いの堤防を走るこのコースは、午前中は快晴・微風で心地良かったのですが、折り返し後は空も曇り、風が徐々に強くなり、時間が経つことに体感温度がどんどん寒くなってきます。雨の予報もなく、気温も昼間は暑く夜も暖かい予報だったため、ウィンドブレーカーをウエストポーチに入れておかなかったことは大失敗で、後半は寒さとの戦いも加わりましたが、もう開き直って走るしかありませんでした。とは言え、1km進んでやっと次の1kmを目標として走る、長い長い時間でしたが、とりあえず走りだけは遅いながらも安定してきました。

70km地点で「もしかしたら完走できるかもしれない」という気持ちが初めて湧いてきました。

75kmを過ぎた頃にはすっかり日が落ちて、コースを照らす投光器が一定間隔であるものの、基本的に暗闇の中を走る状況でした。ヘッドライト型のライトを照らしながら走るランナーも多くいましたし、私もライトは用意してありましたが、暗闇の中を走る方が集中して走れるような気がして、あえてライトは使わずに淡々と走り続けます。

沿道からの声援がこんなに勇気づけられるものかとすごく感動して、声援を送ってくれた人に「ありがとう」と返事をしながら走り続けました。90km地点には妻と次男のKOSEIが待っていて応援してくれましたが、やはり応援には不思議なエネルギーがあるものだと改めて感じた瞬間でした。

ここまで50km以上歩きに毛が生えたような走りしかしてこなかった自分にふがいなさを感じていたので、ランナーとしての誇りを取り戻すために、気力を振り絞ってピッチを上げ、残り5km地点からゴールまでを6分/kmペースで走り切れたことで、素直に完走できたことを喜べたように思います。

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記録は速報値(ネットタイム)で、13時間34分52秒。

決して満足できる記録ではありませんが、今の状況では、完走したことだけで「自分で自分をほめてあげたい!」という気持ちでいます。

さすがに身体はボロボロで立ち上がるのも、身体を動かすのもやっとの状態ですが、幸いにして足の裏の水ぶくれも大事に至らず、あとは全て疲労による筋肉痛だけで、いわゆる故障にあたるものは一日経った今日もありません。

とりあえず、丈夫に生んでくれた両親に感謝しておきましょう。
「三浦雄一郎とその挑戦を支える仲間たち」の最終回は、雄一郎さんの次男であるとともに、プロスキーヤー、冒険家というプロフィールに加え医学博士という顔も持つ、本遠征隊副隊長、三浦豪太(みうらごうた)さんをご紹介します。

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(久保)まずは豪太さんの、三浦隊における役割について教えて下さい。

(豪太)全体的な統括と医療面、あとは頂上に行くまでのお父さんの付き添いです。

(久保)その全体的な統括というのはどういった内容でしょうか?

(豪太)今回、いろいろな人が関わっているので、例えばチームドクターである大城先生のドクター的なアドバイスと、登攀リーダーである倉岡さんの登山タクティクスに関するアドバイスを基本にして、全体的な登山の組み立てをすること。あとは山に入ってしまうと全員が全員いろいろな動きをしなくてはならなくて、特にC2より上は全てのメンバーがお茶作りからテント作りまでするのですが、その中で僕がするのは、酸素計算、テントの配置、これは僕たちが辿り着いたときに全体的に不備が無いかなどのチェックですね、それから変化があったときに対応するための判断が僕の役割ですね。

(久保)では医療面というのは?

(豪太)お父さんの健康チェックですね。大まかなところは大城先生に任せているんですが、高所になったときに大城先生はC2にいるので直接診てもらうことはできません。そのために今までもずっとお父さんの医療面を一緒に見ながらその変化を共有してきていますし、ここまで来る間とか、実際に山の中に入ったときには、大城先生が持っている専門的な知識を共有してきて、例えば心電図の波形を見てもその不整脈が単発なのか連発なのかといった判断のすり合わせをずっと続けてきているので、たとえ離れていても、その共有した知識を持って大城先生とコンタクトをとりながら医療面のサポートをしています。

(久保)ちなみに今回は大城先生がいらっしゃいますが、前回はどうされていたんですか?

(豪太)前回は日本にいる先生方にデータを送って、そのデータのフィードバックを待って、それでやっと状況を知っていたので、今の場合は大城先生がその場にいてくれるので、非常に楽なんです。

(久保)それは今までと相当違いますよね。大城先生の加入は相当大きかったですね。

(豪太)大城先生の加入は本当に大きいです。あと、登山の専門家である倉岡さんのアイディアとかロジスティックとかそういったものを擦り合わせることができるので、両方ともいい方向に進んでいると思います。

(久保)それでは3つ目の頂上でのお父さんの付き添いというのは?

(豪太)本当に細かいところですよね。ずっとテントも一緒になって、酸素の分量の調整や酸素器具が壊れていないかを確認したり、意外と大きいのが水づくりです。

(久保)氷を融かして作るんですよね?

(豪太)そうです。皆さんの持っている登山のイメージとは違うかもしれませんが、登山の半分は水作りをしています。水分をちゃんと摂るというのは、ここベースキャンプでも高所でも同じで、キャンプについたらまず氷を集めて水を作ります。氷を集めるのはシェルパが主にやってくれますが、水作りは四六時中やっている仕事で、お父さんが横で寝ていても水は作っている感じです。

(豪太)とにかく何か必要なときには僕が歩いて動いて・・・、付き添いっていうのは、言ってみれば「超高所での老人介護」です(笑)。お父さんはすごく楽な方ですけどね、文句言わないし、横で寝ているだけなんで(笑)。

(豪太)大概の場合は、登った地点でお父さんは横になって、酸素の流量をチェックして、水を作り始めて、寝ている間・・・といっても高所に行ったらほとんど寝られないんですけど。

(久保)え!寝られないんですか?

(豪太)寝れないですね。酸素を吸ったら寝れますが。C3からは結構寝れますが、それでもC4、C5ではいくら酸素の流量を多くしてもなかなか寝れる環境ではない中でお父さんと一緒に過ごしています。

(久保)そうやって雄一郎さんと一緒にやってきている豪太さんですが、そもそも一緒にエベレストにチャレンジするとき、いったいどのような動機で関わり始めたんですか?

(豪太)2003年のときは単純に僕も一緒にやりたいなと思っていました。エベレストは三浦雄一郎の原点でもあるわけで、世界的に有名になったチャレンジが1970年のエベレスト大滑降でした。そこが言うなればお父さんのお父さんの生きるか死ぬかの分岐点であり、お父さんが普通のスキーヤーか有名になるスキーヤーかどうかの分岐点だったわけです。もちろん死んじゃったらそこで終わりだし、エベレストのような途方も無い山のいろんな怖い話ばかり聞いていたけど、どういうところなのだろうかという興味をもっていました。

(豪太)それと、お父さんが今の僕の年齢よりも4歳くらい若いときに行なったチャレンジとはどんなものだったのか、その当時僕は33歳で、お父さんがエベレストを滑ったのは37歳かな。その当時にお父さんが滑った場所を単純に知りたかったんです。

(豪太)そして一緒に冒険するということが、ずっと今まで三浦家の中にあったことなのですが、それまでの三浦家の冒険は、僕にとっては16歳のときに行ったエルブルース(筆者注:ロシアにあるヨーロッパ最高峰、標高5642m)を最後にバラバラになったというか、それぞれの学校に行ったり、スキーをやったり、僕個人にとってはオリンピックのチャレンジがあったりしたけど、家族としての冒険はブランクがあったわけで、十数年ぶりの家族冒険を久しぶりにやってみたいなって思って、すごくワクワクしました。

(久保)それでは2008年のときはどうでしたか?

(豪太)2008年のときは、本来は2003年とは反対のチベット側から登るはずだったから僕のモチベーションも高かったんですけど、北京五輪の関連で入れなくなって、またまたこっち側か、一度登ったのにまた登るのかというかという油断と弛みがあったのと、お父さんが75歳でチャレンジするんだったら、自分も無酸素で荷物を担いでサウスコル(C4、7980m)くらいまでは行けるだろうと思ったのが油断と失敗でした。

(久保)2008年のとき豪太さんは生死を分けるようなというか、死んでもおかしくない状態になったにも関わらず、今回もチャレンジするというのは、怖さを感じることはありませんか?

(豪太)もし何でそういうことが起きたのかわかっていなかったら怖いですが、理由がはっきりしていて、避けようがあるものであれば対策は練れると思っています。大城先生がC2まで行けることもありますし、今回は、のどと肺を痛めないようにすごく慎重にやっています。そのための対策も大城先生と練っていて、まずは無理をしないこと、そしてサポートに徹することです。お父さんのチャレンジのサポートに徹するということは自分の健康を損ねてはダメだということなんです。ということで、二重三重に安全策を張り巡らせて、徹底した自己管理をするようになりました。

(豪太)例えば、前回僕は肺水腫が原因で脳浮腫になったんですが、その肺水腫をまず起こさないために今回も(高度順化の際に)7000mまで無酸素で行ってきたんですが、そのときも無理はしないで、激しい呼吸はしない、激しい運動はしないようにしていました。と言いつつ、スキーは滑っちゃったんですけど(笑)。

(豪太)ただ非常に順化はうまくできていて、酸素の使用は、前回はC3を越えてさらに上まで無酸素で行っておかしくなったので、今回はLower C3(7100m)から酸素を完全に使い始めます。それが今回の対処法ですね。

(久保)サポートに徹すると仰っていますが、今回は3回目の挑戦になるわけですから、豪太さんにとっての新しいチャレンジというのもあるんじゃないですか?

(豪太)まぁ「一緒に世界の頂上に立つこと」ですね。それ以外の余計なもの、不純物をなるべく外すということがチャレンジです。その場のやらなければいけないことは全てやることに尽きます。あるいは界の頂点に立つこともそうですが、状況次第ではちゃんと降りてくるということも大切ですね。少なくとも僕がダウンしないというのが最初ですね(笑)。

(久保)副隊長として、ここまでの遠征隊全体のここまでの状況についてご説明いただけますか?

(豪太)高所順化がもう少し早めに終われていたら、オリジナルのプランをできたのですが、序盤はあまりにも天気が悪くて、例えばポカルデ(5806m)でスキーをしようという計画も雪が多すぎてできなかったし、ベースキャンプに来てから実際にC1、C2に行って順化して帰ってくるという計画も天候が悪くて上に上がれなかったため、お父さんの順化プログラムを急遽変更せざるを得ませんでした。

(豪太)もともとお父さんはC1、C2に行って2泊して帰ってくるという予定だったんですが、それができなくなって、その代わりに目の前にあるプモリという山の約5800m地点にC1があるので、そこに順化プログラムを切り替えたんです。これも倉岡さんのアドバイスもあって、臨機応変に切り替えたのですが、それがかえって良かったんじゃないかと思っています。

(豪太)というのは、アイスフォールというのは、行って帰ってくるのは結構リスクが高いんです。特に今回、エベレストで最もお父さんにとってあらゆる要素の中で最もハードなのが、ベースキャンプからC1に行くアイスフォールを越えるところだと僕は思っていて、ただこれをいたずらに多く行き来すると、お父さんの体力が下がってしまう。とは言え、高度順化もしなくてはならない。プモリのC1は5800mあるので、エベレストのC1とほぼ同じ標高にある。ということは、高度順化さえ行なって体力を温存すれば、アイスフォールを抜けられると見ているんです。

(豪太)さらに、通常でしたら一度高いところに行って高度純化した後、標高を落として身体を休めるのですが、ただ今までも高度を落とした後に上がってくるのにも体力を使うのと、久保さんもここまで上がってくるときにわかったと思いますが、結構ほこりっぽくって、喉をやられてクンブ咳になったり、あるいは泊まる宿によっては違う人から風邪をうつされるというリスクがあるんです。

(豪太)なので、下りずにここ(ベースキャンプ)にさえいれば、身体は健康に保たれるわけです。反対に酸素を吸うことによって、身体の標高だけを落とす方法を採ったんです。今まで酸素を背負って歩いてこの4日間の休養をとっていました。お父さんにとってはベースキャンプで酸素を吸って歩くというのは不服だったかもしれませんが、これをプログラム化して、今ちょうどベースキャンプに上がってくるという仮想シミュレーションをやっていると、お父さんは非常に健康的なんです。

(豪太)そう考えると、あらゆる面でいろんなところが新しい取り組みでしたね。仮想的に酸素を使って身体の標高を落とす。そして仮想的に酸素を減らしてベースキャンプの標高まで戻す。リスクも排除ができるし、単純に酸素を吸うということは身体の回復にもなる。1ヶ月半あまり標高の高いところで生活しているので、その疲れをこの5日間で癒したことになるんです。

(久保)これは新しい戦略だと言っていいんですね?

(豪太)全く他にやっている人はいません、この戦略は。

(久保)ということはこれが成功すれば・・・

(豪太)次の指針になるかもしれませんね。高齢者の登り方の指針に。

(久保)なるほど、それは楽しみですね。では次に父であり隊長である雄一郎さんは豪太さんにとってどういう存在なのかということについて聞かせて下さい。

(豪太)う~ん、昔はライバルでしたけど、今はパートナーでお互いに補うような存在ですかね。僕もお父さんを補っているけど、お父さんもいろんな意味で補ってくれていて、例えば考え方であったり、そうですね、今は冒険に対する姿勢の師匠ですね。

(久保)それは?

(豪太)やっぱり冒険は楽しまなきゃということですよね。知性の刺激であり、限界への挑戦であり、そのときに冒険を楽しむ構えにあるかどうかが重要で、やらされる冒険と自分からワクワクしてやる冒険では広がる世界が違いますから。

(豪太)僕たちはお父さんを一方的にケアやサポートしている風になっているけど、お父さんはデンと構えていて、自分のやるべきことに集中して、「80歳でエベレストの頂上に登れたらこんなに楽しいことはないんじゃないか!」という姿勢ですよね。

(久保)私は今回三浦隊のメンバーの皆さんのインタビューをしてきて、そういう雄一郎さん確かにすごいんですが、それ以上に三浦ファミリーがすごいということを仰っている人が多かったという印象が強いんですが、この三浦ファミリーというのはどうやって構築されたんでしょうか?

(豪太)やっぱりこの人(雄一郎さんを指して)ですよね。この人と一緒についているうちにそういう雰囲気になっていくんでしょうね。

(久保)やっぱり三浦ファミリーの原点は雄一郎さんだと。

(豪太)全くその通りです。よく三浦敬三だって言われるし、三浦敬三も確かに探究一筋ですごいんですが、三浦家が三浦家であるのは三浦雄一郎ですね・・・そう、三浦雄一郎なんです。

(久保)それって豪太さん自身はいつ頃認識したんですか?

(豪太)小ちゃいときから、そう5歳くらいのときから富士山に登らされたり、キリマンジャロに行ったり、エルブルースや北極に行ったり、南米に行ったりして、「世の中っていうのは大きいんだ」ということ、そして「世の中っていうのは教室の中だけじゃないんだ」ということを感じてきました。「だからこそ教室が大事なんだ」ということも逆説的には言えるけど、そこで良かろうが悪かろうが「やっぱり大きいんだ」ってことなんです(笑)。

(豪太)大きいところで人との接触もあるし、山の厳しさもあるし、ときにはアフリカのヘンなところでヘンな病気にかかったりするわけですけど、一つの大きなことで完結することがなるべくないようにしたいんじゃないですかね。

(久保)完結がないんですね!

(豪太)今回は集大成みたいなものですけど、また85歳になったら登るとか言うのもそういうことなんですよ。そしていつでもお父さんが何かすると言うことを覚悟しなくてはならない。お父さんの理不尽なことでいっぱいなんです。だからお父さんと登っている最中に、「85歳で登りにいくか!」って言われたら「はい、そうですね。」と言うのが三浦家です。

(久保)覚悟が必要なファミリーなんですね~(笑)

(豪太)そう、オープンな覚悟が必要なんです。何でもこいって言う覚悟です。そして、そこで完結してここで終わらないという覚悟をいつでも持ってなくてはいけないのが三浦家なんです。だから三浦雄一郎を中心とした家族だと言えるのではないでしょうか。

(久保)それでは、子どもたちに向けてメッセージを一つお願いします。

(豪太)僕はこうやってエベレストに来ているけれども、冒険っていうのは、エベレストだけじゃなくて、いろいろなところに転がっているんですよ。例えば僕は逗子に住んでいるんですけど、逗子の周りにはいろいろなお魚がいて、タコがいて、どういう時期だったらどういう風に何がいるかといった、いろいろな変化があるんです。

(豪太)僕が逗子に最初に引っ越したときに、そのとき6月に引っ越したんですが、12月半ばのスキーシーズンが始まるまで僕は毎晩、海の中に入っていたんです。

(久保)え?夜ですか?

(豪太)そう夜です。ライトを持って。どんな魚がいるかを見に。

(豪太)毎日変わるんですよ。それは潮の干満だったり、季節だったり、潮流だったりと。それが楽しくて、仕事が終わったら海に入りたくてしょうがなかったんですよ。これはたぶん逗子にいっぱい人が住んでいて、沿岸部にも住んでいると思うんですが、そういうことを知らない人も多いと思うんです。

(豪太)定点観測で自分の目の前の海がどうなっているかなんて。もちろん夜の海は怖かったり、冷たかったりするわけですけど、そういったドキドキを越えて新しい発見がたくさんあるんですよね。ときには、終電で帰って、そうすると1時半頃に着くんですが、それからシュノーケル持って、ウェットスーツを着て家を出ると2時半、夢中になっているともう明るくなっているんです。それでまた仕事にいくんです(笑)。

(久保)バカですね~(笑)

(豪太)とにかく、ドキドキ、ワクワクをちゃんと追求すると、いろいろ面白いことがわかってくるってことなんです。

(豪太)好奇心の探究こそが冒険なんで、ぜひ子どもたちにメッセージがあるとすれば、どんな日常の細かいことでも、ずっと定点観測していても面白いし、それが大きな世界に広がるかもしれないってことですかね。

(豪太)モーグルをずっとやっていたのもそうですよね。モーグルも、人より目立つ技をやりたいって追求していったらモーグルの形になっていったんです。誰よりもスキーで人を驚かせたいって気持ちがモーグルになったわけですし、今回、博士号を取ったのも、高所で人はどうなるのかというのをずっと遺伝子レベルで追求してきたからであって、どんなに小さなことでも広がりがあるってことですよ。

(久保)最後に、豪太さん自身の今後のチャレンジ、したいことって何ですか?

(豪太)いや~、大きなチャレンジを目の前にしたときにそれが終わったときに、しばらく惚けちゃうんですよね。だから5年に1回のエベレストがちょうどいいかもしれないんですが・・・そうですね・・・冒険が終わるのがすごい寂しいんです。寂しくなったときにまた違う冒険を見つけにいきたいですね。これだっていうのは今はまだないかな。

まだ今後のチャレンジはないと言いながら、実はこの後に今取組んでいる研究テーマについて熱く語り出したゴンちゃんの話は全く止まりませんでした。それもここで紹介したいくらいに興味深い研究なのですが、今回の本題からは少しずれるので残念ながら割愛するものの、きっといつかまた新しい画期的な論文を発表してくれるものと期待しています。

冒険も研究も、そして日々の何気ないことでも、一つ一つのことを徹底的に突き詰めるからこそ、ゴンちゃんは多才な活躍をすることができるのだと思います。下ネタも突き詰めるところがあるのが玉にキズですが(笑)、そんなことも含めて、ムードメーカーとして三浦隊を引っ張るゴンちゃんの活躍を心より応援しています!

帰ってきたら、また飲みましょうね!

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