「三浦雄一郎とその挑戦を支える仲間たち」の最終回は、雄一郎さんの次男であるとともに、プロスキーヤー、冒険家というプロフィールに加え医学博士という顔も持つ、本遠征隊副隊長、三浦豪太(みうらごうた)さんをご紹介します。
(久保)まずは豪太さんの、三浦隊における役割について教えて下さい。
(豪太)全体的な統括と医療面、あとは頂上に行くまでのお父さんの付き添いです。
(久保)その全体的な統括というのはどういった内容でしょうか?
(豪太)今回、いろいろな人が関わっているので、例えばチームドクターである大城先生のドクター的なアドバイスと、登攀リーダーである倉岡さんの登山タクティクスに関するアドバイスを基本にして、全体的な登山の組み立てをすること。あとは山に入ってしまうと全員が全員いろいろな動きをしなくてはならなくて、特にC2より上は全てのメンバーがお茶作りからテント作りまでするのですが、その中で僕がするのは、酸素計算、テントの配置、これは僕たちが辿り着いたときに全体的に不備が無いかなどのチェックですね、それから変化があったときに対応するための判断が僕の役割ですね。
(久保)では医療面というのは?
(豪太)お父さんの健康チェックですね。大まかなところは大城先生に任せているんですが、高所になったときに大城先生はC2にいるので直接診てもらうことはできません。そのために今までもずっとお父さんの医療面を一緒に見ながらその変化を共有してきていますし、ここまで来る間とか、実際に山の中に入ったときには、大城先生が持っている専門的な知識を共有してきて、例えば心電図の波形を見てもその不整脈が単発なのか連発なのかといった判断のすり合わせをずっと続けてきているので、たとえ離れていても、その共有した知識を持って大城先生とコンタクトをとりながら医療面のサポートをしています。
(久保)ちなみに今回は大城先生がいらっしゃいますが、前回はどうされていたんですか?
(豪太)前回は日本にいる先生方にデータを送って、そのデータのフィードバックを待って、それでやっと状況を知っていたので、今の場合は大城先生がその場にいてくれるので、非常に楽なんです。
(久保)それは今までと相当違いますよね。大城先生の加入は相当大きかったですね。
(豪太)大城先生の加入は本当に大きいです。あと、登山の専門家である倉岡さんのアイディアとかロジスティックとかそういったものを擦り合わせることができるので、両方ともいい方向に進んでいると思います。
(久保)それでは3つ目の頂上でのお父さんの付き添いというのは?
(豪太)本当に細かいところですよね。ずっとテントも一緒になって、酸素の分量の調整や酸素器具が壊れていないかを確認したり、意外と大きいのが水づくりです。
(久保)氷を融かして作るんですよね?
(豪太)そうです。皆さんの持っている登山のイメージとは違うかもしれませんが、登山の半分は水作りをしています。水分をちゃんと摂るというのは、ここベースキャンプでも高所でも同じで、キャンプについたらまず氷を集めて水を作ります。氷を集めるのはシェルパが主にやってくれますが、水作りは四六時中やっている仕事で、お父さんが横で寝ていても水は作っている感じです。
(豪太)とにかく何か必要なときには僕が歩いて動いて・・・、付き添いっていうのは、言ってみれば「超高所での老人介護」です(笑)。お父さんはすごく楽な方ですけどね、文句言わないし、横で寝ているだけなんで(笑)。
(豪太)大概の場合は、登った地点でお父さんは横になって、酸素の流量をチェックして、水を作り始めて、寝ている間・・・といっても高所に行ったらほとんど寝られないんですけど。
(久保)え!寝られないんですか?
(豪太)寝れないですね。酸素を吸ったら寝れますが。C3からは結構寝れますが、それでもC4、C5ではいくら酸素の流量を多くしてもなかなか寝れる環境ではない中でお父さんと一緒に過ごしています。
(久保)そうやって雄一郎さんと一緒にやってきている豪太さんですが、そもそも一緒にエベレストにチャレンジするとき、いったいどのような動機で関わり始めたんですか?
(豪太)2003年のときは単純に僕も一緒にやりたいなと思っていました。エベレストは三浦雄一郎の原点でもあるわけで、世界的に有名になったチャレンジが1970年のエベレスト大滑降でした。そこが言うなればお父さんのお父さんの生きるか死ぬかの分岐点であり、お父さんが普通のスキーヤーか有名になるスキーヤーかどうかの分岐点だったわけです。もちろん死んじゃったらそこで終わりだし、エベレストのような途方も無い山のいろんな怖い話ばかり聞いていたけど、どういうところなのだろうかという興味をもっていました。
(豪太)それと、お父さんが今の僕の年齢よりも4歳くらい若いときに行なったチャレンジとはどんなものだったのか、その当時僕は33歳で、お父さんがエベレストを滑ったのは37歳かな。その当時にお父さんが滑った場所を単純に知りたかったんです。
(豪太)そして一緒に冒険するということが、ずっと今まで三浦家の中にあったことなのですが、それまでの三浦家の冒険は、僕にとっては16歳のときに行ったエルブルース(筆者注:ロシアにあるヨーロッパ最高峰、標高5642m)を最後にバラバラになったというか、それぞれの学校に行ったり、スキーをやったり、僕個人にとってはオリンピックのチャレンジがあったりしたけど、家族としての冒険はブランクがあったわけで、十数年ぶりの家族冒険を久しぶりにやってみたいなって思って、すごくワクワクしました。
(久保)それでは2008年のときはどうでしたか?
(豪太)2008年のときは、本来は2003年とは反対のチベット側から登るはずだったから僕のモチベーションも高かったんですけど、北京五輪の関連で入れなくなって、またまたこっち側か、一度登ったのにまた登るのかというかという油断と弛みがあったのと、お父さんが75歳でチャレンジするんだったら、自分も無酸素で荷物を担いでサウスコル(C4、7980m)くらいまでは行けるだろうと思ったのが油断と失敗でした。
(久保)2008年のとき豪太さんは生死を分けるようなというか、死んでもおかしくない状態になったにも関わらず、今回もチャレンジするというのは、怖さを感じることはありませんか?
(豪太)もし何でそういうことが起きたのかわかっていなかったら怖いですが、理由がはっきりしていて、避けようがあるものであれば対策は練れると思っています。大城先生がC2まで行けることもありますし、今回は、のどと肺を痛めないようにすごく慎重にやっています。そのための対策も大城先生と練っていて、まずは無理をしないこと、そしてサポートに徹することです。お父さんのチャレンジのサポートに徹するということは自分の健康を損ねてはダメだということなんです。ということで、二重三重に安全策を張り巡らせて、徹底した自己管理をするようになりました。
(豪太)例えば、前回僕は肺水腫が原因で脳浮腫になったんですが、その肺水腫をまず起こさないために今回も(高度順化の際に)7000mまで無酸素で行ってきたんですが、そのときも無理はしないで、激しい呼吸はしない、激しい運動はしないようにしていました。と言いつつ、スキーは滑っちゃったんですけど(笑)。
(豪太)ただ非常に順化はうまくできていて、酸素の使用は、前回はC3を越えてさらに上まで無酸素で行っておかしくなったので、今回はLower C3(7100m)から酸素を完全に使い始めます。それが今回の対処法ですね。
(久保)サポートに徹すると仰っていますが、今回は3回目の挑戦になるわけですから、豪太さんにとっての新しいチャレンジというのもあるんじゃないですか?
(豪太)まぁ「一緒に世界の頂上に立つこと」ですね。それ以外の余計なもの、不純物をなるべく外すということがチャレンジです。その場のやらなければいけないことは全てやることに尽きます。あるいは界の頂点に立つこともそうですが、状況次第ではちゃんと降りてくるということも大切ですね。少なくとも僕がダウンしないというのが最初ですね(笑)。
(久保)副隊長として、ここまでの遠征隊全体のここまでの状況についてご説明いただけますか?
(豪太)高所順化がもう少し早めに終われていたら、オリジナルのプランをできたのですが、序盤はあまりにも天気が悪くて、例えばポカルデ(5806m)でスキーをしようという計画も雪が多すぎてできなかったし、ベースキャンプに来てから実際にC1、C2に行って順化して帰ってくるという計画も天候が悪くて上に上がれなかったため、お父さんの順化プログラムを急遽変更せざるを得ませんでした。
(豪太)もともとお父さんはC1、C2に行って2泊して帰ってくるという予定だったんですが、それができなくなって、その代わりに目の前にあるプモリという山の約5800m地点にC1があるので、そこに順化プログラムを切り替えたんです。これも倉岡さんのアドバイスもあって、臨機応変に切り替えたのですが、それがかえって良かったんじゃないかと思っています。
(豪太)というのは、アイスフォールというのは、行って帰ってくるのは結構リスクが高いんです。特に今回、エベレストで最もお父さんにとってあらゆる要素の中で最もハードなのが、ベースキャンプからC1に行くアイスフォールを越えるところだと僕は思っていて、ただこれをいたずらに多く行き来すると、お父さんの体力が下がってしまう。とは言え、高度順化もしなくてはならない。プモリのC1は5800mあるので、エベレストのC1とほぼ同じ標高にある。ということは、高度順化さえ行なって体力を温存すれば、アイスフォールを抜けられると見ているんです。
(豪太)さらに、通常でしたら一度高いところに行って高度純化した後、標高を落として身体を休めるのですが、ただ今までも高度を落とした後に上がってくるのにも体力を使うのと、久保さんもここまで上がってくるときにわかったと思いますが、結構ほこりっぽくって、喉をやられてクンブ咳になったり、あるいは泊まる宿によっては違う人から風邪をうつされるというリスクがあるんです。
(豪太)なので、下りずにここ(ベースキャンプ)にさえいれば、身体は健康に保たれるわけです。反対に酸素を吸うことによって、身体の標高だけを落とす方法を採ったんです。今まで酸素を背負って歩いてこの4日間の休養をとっていました。お父さんにとってはベースキャンプで酸素を吸って歩くというのは不服だったかもしれませんが、これをプログラム化して、今ちょうどベースキャンプに上がってくるという仮想シミュレーションをやっていると、お父さんは非常に健康的なんです。
(豪太)そう考えると、あらゆる面でいろんなところが新しい取り組みでしたね。仮想的に酸素を使って身体の標高を落とす。そして仮想的に酸素を減らしてベースキャンプの標高まで戻す。リスクも排除ができるし、単純に酸素を吸うということは身体の回復にもなる。1ヶ月半あまり標高の高いところで生活しているので、その疲れをこの5日間で癒したことになるんです。
(久保)これは新しい戦略だと言っていいんですね?
(豪太)全く他にやっている人はいません、この戦略は。
(久保)ということはこれが成功すれば・・・
(豪太)次の指針になるかもしれませんね。高齢者の登り方の指針に。
(久保)なるほど、それは楽しみですね。では次に父であり隊長である雄一郎さんは豪太さんにとってどういう存在なのかということについて聞かせて下さい。
(豪太)う~ん、昔はライバルでしたけど、今はパートナーでお互いに補うような存在ですかね。僕もお父さんを補っているけど、お父さんもいろんな意味で補ってくれていて、例えば考え方であったり、そうですね、今は冒険に対する姿勢の師匠ですね。
(久保)それは?
(豪太)やっぱり冒険は楽しまなきゃということですよね。知性の刺激であり、限界への挑戦であり、そのときに冒険を楽しむ構えにあるかどうかが重要で、やらされる冒険と自分からワクワクしてやる冒険では広がる世界が違いますから。
(豪太)僕たちはお父さんを一方的にケアやサポートしている風になっているけど、お父さんはデンと構えていて、自分のやるべきことに集中して、「80歳でエベレストの頂上に登れたらこんなに楽しいことはないんじゃないか!」という姿勢ですよね。
(久保)私は今回三浦隊のメンバーの皆さんのインタビューをしてきて、そういう雄一郎さん確かにすごいんですが、それ以上に三浦ファミリーがすごいということを仰っている人が多かったという印象が強いんですが、この三浦ファミリーというのはどうやって構築されたんでしょうか?
(豪太)やっぱりこの人(雄一郎さんを指して)ですよね。この人と一緒についているうちにそういう雰囲気になっていくんでしょうね。
(久保)やっぱり三浦ファミリーの原点は雄一郎さんだと。
(豪太)全くその通りです。よく三浦敬三だって言われるし、三浦敬三も確かに探究一筋ですごいんですが、三浦家が三浦家であるのは三浦雄一郎ですね・・・そう、三浦雄一郎なんです。
(久保)それって豪太さん自身はいつ頃認識したんですか?
(豪太)小ちゃいときから、そう5歳くらいのときから富士山に登らされたり、キリマンジャロに行ったり、エルブルースや北極に行ったり、南米に行ったりして、「世の中っていうのは大きいんだ」ということ、そして「世の中っていうのは教室の中だけじゃないんだ」ということを感じてきました。「だからこそ教室が大事なんだ」ということも逆説的には言えるけど、そこで良かろうが悪かろうが「やっぱり大きいんだ」ってことなんです(笑)。
(豪太)大きいところで人との接触もあるし、山の厳しさもあるし、ときにはアフリカのヘンなところでヘンな病気にかかったりするわけですけど、一つの大きなことで完結することがなるべくないようにしたいんじゃないですかね。
(久保)完結がないんですね!
(豪太)今回は集大成みたいなものですけど、また85歳になったら登るとか言うのもそういうことなんですよ。そしていつでもお父さんが何かすると言うことを覚悟しなくてはならない。お父さんの理不尽なことでいっぱいなんです。だからお父さんと登っている最中に、「85歳で登りにいくか!」って言われたら「はい、そうですね。」と言うのが三浦家です。
(久保)覚悟が必要なファミリーなんですね~(笑)
(豪太)そう、オープンな覚悟が必要なんです。何でもこいって言う覚悟です。そして、そこで完結してここで終わらないという覚悟をいつでも持ってなくてはいけないのが三浦家なんです。だから三浦雄一郎を中心とした家族だと言えるのではないでしょうか。
(久保)それでは、子どもたちに向けてメッセージを一つお願いします。
(豪太)僕はこうやってエベレストに来ているけれども、冒険っていうのは、エベレストだけじゃなくて、いろいろなところに転がっているんですよ。例えば僕は逗子に住んでいるんですけど、逗子の周りにはいろいろなお魚がいて、タコがいて、どういう時期だったらどういう風に何がいるかといった、いろいろな変化があるんです。
(豪太)僕が逗子に最初に引っ越したときに、そのとき6月に引っ越したんですが、12月半ばのスキーシーズンが始まるまで僕は毎晩、海の中に入っていたんです。
(久保)え?夜ですか?
(豪太)そう夜です。ライトを持って。どんな魚がいるかを見に。
(豪太)毎日変わるんですよ。それは潮の干満だったり、季節だったり、潮流だったりと。それが楽しくて、仕事が終わったら海に入りたくてしょうがなかったんですよ。これはたぶん逗子にいっぱい人が住んでいて、沿岸部にも住んでいると思うんですが、そういうことを知らない人も多いと思うんです。
(豪太)定点観測で自分の目の前の海がどうなっているかなんて。もちろん夜の海は怖かったり、冷たかったりするわけですけど、そういったドキドキを越えて新しい発見がたくさんあるんですよね。ときには、終電で帰って、そうすると1時半頃に着くんですが、それからシュノーケル持って、ウェットスーツを着て家を出ると2時半、夢中になっているともう明るくなっているんです。それでまた仕事にいくんです(笑)。
(久保)バカですね~(笑)
(豪太)とにかく、ドキドキ、ワクワクをちゃんと追求すると、いろいろ面白いことがわかってくるってことなんです。
(豪太)好奇心の探究こそが冒険なんで、ぜひ子どもたちにメッセージがあるとすれば、どんな日常の細かいことでも、ずっと定点観測していても面白いし、それが大きな世界に広がるかもしれないってことですかね。
(豪太)モーグルをずっとやっていたのもそうですよね。モーグルも、人より目立つ技をやりたいって追求していったらモーグルの形になっていったんです。誰よりもスキーで人を驚かせたいって気持ちがモーグルになったわけですし、今回、博士号を取ったのも、高所で人はどうなるのかというのをずっと遺伝子レベルで追求してきたからであって、どんなに小さなことでも広がりがあるってことですよ。
(久保)最後に、豪太さん自身の今後のチャレンジ、したいことって何ですか?
(豪太)いや~、大きなチャレンジを目の前にしたときにそれが終わったときに、しばらく惚けちゃうんですよね。だから5年に1回のエベレストがちょうどいいかもしれないんですが・・・そうですね・・・冒険が終わるのがすごい寂しいんです。寂しくなったときにまた違う冒険を見つけにいきたいですね。これだっていうのは今はまだないかな。
まだ今後のチャレンジはないと言いながら、実はこの後に今取組んでいる研究テーマについて熱く語り出したゴンちゃんの話は全く止まりませんでした。それもここで紹介したいくらいに興味深い研究なのですが、今回の本題からは少しずれるので残念ながら割愛するものの、きっといつかまた新しい画期的な論文を発表してくれるものと期待しています。
冒険も研究も、そして日々の何気ないことでも、一つ一つのことを徹底的に突き詰めるからこそ、ゴンちゃんは多才な活躍をすることができるのだと思います。下ネタも突き詰めるところがあるのが玉にキズですが(笑)、そんなことも含めて、ムードメーカーとして三浦隊を引っ張るゴンちゃんの活躍を心より応援しています!
帰ってきたら、また飲みましょうね!