「もうリタイヤしよう」

何度その言葉が思い浮かんだかわかりません。
今朝の、ひざ、足首、足裏、腕、肩などの痛みと動きの不自由さが、昨日の「東京・柴又100K」がいかにきつかったかを物語っています。

フルマラソンが42.195kmであるのに対して、その倍以上の距離がある100kmウルトラマラソンにエントリーしたのは3月初旬のこと。その当時の状態は、3月3日付けのブログ「トレーニング セカンドステージ」にも書かれているように順調そのもの。たまたまネットを見ていたら、東京・柴又で100kmマラソンがあることを知り、勢いでエントリーを決めました。

そこからは徐々に走る距離を伸ばして調整をしていけばサブテン(100kmを10時間以内で走ること)も可能ではないかと、勝手に思い込んでいました。(今考えれば、その時点から甘かったのですが)

ただその時に僕は大切なことを忘れていました。そもそも3月から4月中旬までは新年度が始まるにあたって業務が多忙になりトレーニングする時間が取りにくいこと、4月24日から5月11日までエベレストベースキャンプにトレッキングに行くことになっており、靴馴らしなども含め、走るためのトレーニングがあまりできない状況にあったのです。

結局10km走をできたのが、3月に3回、4月のエベレスト行き前に3回、そして帰国後10日間は疲労と業務多忙で全く走れず、その後なんとか3回走っただけ。思い起こせば昨年11月に富士山マラソンに参加した際も、10km単位では相当走っていたものの、20km以上を走ったのは河口湖にした見に行った際に27kmを走った1回だけ。フルマラソン以降は一度も20km以上を走らないままで100kmマラソンにぶっつけ本番ですから、無謀にもほどがあるような調整状況でした。

加えて、ヒマラヤ高所での低酸素状態に長くいることによる筋肉への影響も言われていたのですが、帰国後、実際に運動を再開すると、走ったときの踏ん張りなど身体のバランスをとる筋力が落ちていることに気づくととともに、疲れやすくなっていることがわかりました。

そのような練習不十分、体調不十分な中で参加を棄権するという選択肢もありましたが、「やったことがないことをやってみたい」という気持ちを抑えきれずに、ついに本番当日を迎えてしまいました。

それでも、スタートラインに立った時には「何とか行けるんじゃないかな」と甘く考えていましたし、走り出して25kmまではペースもフルマラソン完走時と比べてもかなり抑えた6分/kmペースで走っていたので、相当楽に走っていました。「このペースなら100km走れるんじゃないかな~。エイドでの休憩などを含めても11時間くらいで走りきれるかもしれない」と鼻歌まじりで走っていました。

フルマラソンやヒマラヤ・トレッキングの経験を生かして、一定の遅いスピードで走り続けるための、水分と食料の補給、そして呼吸による酸素補給もかなり意識して行ない、昨年のフルマラソンの時には25kmでやってきた壁(突然、足が止まること)もありませんでした。

しかし順調に30kmを越えた後に、心肺系の負担感や、気持ちにはまだまだ余裕があったのですが、その壁は突然現れ、脚を前に出すのが苦痛になりました。

しかも脚だけではなく、両腕も同様に鉛のように重くなってきたのです。明らかな筋疲労と言えばそうなのですが、それ以前にこの距離を走りきるだけの筋力が無かったとしか言いようの無いくらい、結局最後まで脚は思うように動きませんでした。

そこからは修羅場でした。フルマラソンでは一度も歩かなかった私が、34km地点からついに歩き始めました。35km地点から再び走り始めても全くペースが上がらず、そこから45km地点まで「これ以上速く走れないほど全速力で走っていただけど、これ以上遅ければ歩いているのと何ら変わりのない」速さで走ったり、歩いたりして、何とか46km地点にある折り返し地点のエイドまで辿り着いたのです。

エイドでは、貪るようにおにぎりや、漬け物、トマトやきゅうり、フルーツなどを食べ休憩も十分に取りましたが、一向に脚や腕の重さは解消しないので、途中棄権のことしか頭に浮かんできませんでした。

しかし、そこでエベレストベースキャンプで一緒に時を過ごした三浦雄一郎さん、そして遠征隊メンバーの顔が思い浮かびました。

「疲れたとか、やめるとか、三浦さんの前じゃ口に出せませんよ~!」と語る遠征隊メンバーの笑顔、そしてエベレスト登頂後のインタビューで「ものすごく疲れた、まるでフラフラの歩く幽霊のようだったよ」「何としてでも、生きて帰ろうとした」と下山の様子を語る三浦さんの顔が。

「支援隊としてベースキャンプにまで行った僕がここでリタイヤしては、三浦さんに顔を合わせることはできない!」という勝手な使命感が、ニョキニョキと伸び上がってきました。

さらに「疲労はあるけど、(ケガなどの)故障はない。さらに今のところはまだ制限時間内に関門をクリアできている」という状況で途中棄権する理由も見当たらず、「時間制限に引っかかってしまうのなら仕方がないが、何としてでもゴールにまで辿り着くよう、できる限りのことをしよう」と心に決め、走り始めました。

走り始めても筋疲労の状況は全く変わりませんでしたが、例えば肩から首にかけての痛みは、疲れて頭が前に下がっていることが原因だと分析し、頭も含めて突っ立った状態で走るフォームに変えたり、脚が上がらないすなわちストライドが伸びない状態では、ピッチを上げるしかペースが上がらないので、それを長続きさせるために、呼吸のリズムを普段のリズムとは変えて、それによってピッチをコントロールするなど工夫をすることで、何とか8分/kmのペースまで戻しました。

しかし、今度は足の裏に水ぶくれらしきものができ、それがどんどん大きくなってきて、足の裏がぶよぶよしてきました。痛みもありましたが、見てしまうと走り続ける気力を奪いかねなかったので、一切気にせずに走り続けることにしました。

江戸川沿いの堤防を走るこのコースは、午前中は快晴・微風で心地良かったのですが、折り返し後は空も曇り、風が徐々に強くなり、時間が経つことに体感温度がどんどん寒くなってきます。雨の予報もなく、気温も昼間は暑く夜も暖かい予報だったため、ウィンドブレーカーをウエストポーチに入れておかなかったことは大失敗で、後半は寒さとの戦いも加わりましたが、もう開き直って走るしかありませんでした。とは言え、1km進んでやっと次の1kmを目標として走る、長い長い時間でしたが、とりあえず走りだけは遅いながらも安定してきました。

70km地点で「もしかしたら完走できるかもしれない」という気持ちが初めて湧いてきました。

75kmを過ぎた頃にはすっかり日が落ちて、コースを照らす投光器が一定間隔であるものの、基本的に暗闇の中を走る状況でした。ヘッドライト型のライトを照らしながら走るランナーも多くいましたし、私もライトは用意してありましたが、暗闇の中を走る方が集中して走れるような気がして、あえてライトは使わずに淡々と走り続けます。

沿道からの声援がこんなに勇気づけられるものかとすごく感動して、声援を送ってくれた人に「ありがとう」と返事をしながら走り続けました。90km地点には妻と次男のKOSEIが待っていて応援してくれましたが、やはり応援には不思議なエネルギーがあるものだと改めて感じた瞬間でした。

ここまで50km以上歩きに毛が生えたような走りしかしてこなかった自分にふがいなさを感じていたので、ランナーとしての誇りを取り戻すために、気力を振り絞ってピッチを上げ、残り5km地点からゴールまでを6分/kmペースで走り切れたことで、素直に完走できたことを喜べたように思います。

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記録は速報値(ネットタイム)で、13時間34分52秒。

決して満足できる記録ではありませんが、今の状況では、完走したことだけで「自分で自分をほめてあげたい!」という気持ちでいます。

さすがに身体はボロボロで立ち上がるのも、身体を動かすのもやっとの状態ですが、幸いにして足の裏の水ぶくれも大事に至らず、あとは全て疲労による筋肉痛だけで、いわゆる故障にあたるものは一日経った今日もありません。

とりあえず、丈夫に生んでくれた両親に感謝しておきましょう。