絵に呼ばれたのか | 作家修業@ぴろこ

作家修業@ぴろこ

幼い頃から文字に親しんで育つ。
2017年に色彩心理カウンセラーとなり、更に文章を書くことで自らを癒せることを学ぶ。
文章を通して自分のコンプレックスを解消できた経験をもとに、文筆家として活動する。

「呼ばれる」という表現を、本当はしたくない。引き寄せみたいなスピリチュアルの意味合いを持たせたくはないから。ただ、数日前から偶然が重なり、私の気持ち以上の何かがあったことは否定できない。呼ばれた、というしかないのだ。

 

別の絵画展をインターネットで検索していたら、高野山金剛峰寺 襖絵完成記念 千住博展が神戸であることを知った。ちょうど一年前に、千住博さんのデジタル展を見に行き、この人の日本画はいいなと思っていた。
千住博展の記事を読むと、イベントのお知らせが目に入った。会期前日のイベントは、コシノヒロコさんとの対談。対談イベントは行かないことが多いけれど、このイベントには行きたいと思った。

電車を乗り継いで会場まで行く。対談は時間が経つごとに熱を帯び、82歳と61歳とは思えないパワーがあった。
対談が終わってから、展覧会を見にいく。イベントに行った人だけしかいないので、ゆったりと見ることができた。

 

最初に作製の動画を見る。そして、メインの瀧図がコーナー全体に現れた。右端手前から進んで中央部分に差しかかるころ、滝しぶきの空間に魅せられた。白い細かい粒子でできている。この空気感は何だろう。焼群青(やきぐんじょう)という暗い青色に、白い胡粉だけの世界。日本画を見て初めて、見入った作品だった。

 

「今、見ておけ」
瀧図に、そう言われたようにも思えた。襖になってしまえば、建具としての様相になってしまう。引手や襖縁がつくと、枠や小物のない原画を見ることはできない。
襖絵になれば、その味わいもまた、格別な場所になるに違いない。しかし、余計なものが一切ない、絵だけが並んだ世界は、奉納されるまでの期間限定の美しさがある。

 

瀧図のコーナーに、私以外の観客がいない時間があった。3面に渡る瀧図の中でも一番好きな場所で見入る。人の姿が目の端に入ることなく、人の気配を感じることなく。ただ絵と向かい合う、静かな時間があった。

 

 

 

 

(noteに掲載)

https://note.mu/nakatahiroko/n/na1e84145ed1f