こんにちは。墓の魚の作曲家です♪
昔、私はブログで、
フランス詩などの世界は、日本の音楽の歌詞などとは
全く異なる方向に進み、進化したもので、
高度で難解な言葉遊び、言葉のスペルの組み合わせの美しさや、
ユーモアへの実験的な挑戦がそこには花開き、
それを現代の日本で普及している
詩や歌詞のイメージで読んでしまうと、
理解しにくくなってしまうかもしれない、という様な話をしました。
つまり南欧で開花し、繁栄を誇った
スペイン、ドイツ、フランス、ポルトガルなどの多くの詩は、
物語のような一貫した筋をシンプルに読み取る為のものではなく、
単語、言葉の組み合わせのセンス、
その言葉の迷宮から連想される感情、意味を、
読者各々が感じ、楽しむものであって、
逆に言うと、それらは、
場合によっては、それ以上のものではないのです(笑)
(これがゴンゴリスモのような
暗号的な知識を必要とする作品だと話は別ですが)。
それは絵画でいうキュビズムと同じで、
普段の日常的な感覚、
変な言い方をするなら「実用性」からは、やや離脱したともいえる
洗練された作品群なので、
それらを楽しむ時は、前提知識を持っていたとしても、
やはり最終的には感覚で受け入れなければ
楽しめない要素があるように思います。
(あるいは、[感覚で受け入れる]ではなく、
[ユーモアとして]、[実験的なものとして受け入れる]
と言う方がいいかもしれません)
さて、詩と違って、文学にはもう少し
明確な物語があります。
しかし、詩の様な文学というものもあります。
例えばポルトガル作家の
ヴェルジリオ・フェレイラ(Vergílio Ferreira)の
「ジェノヴェヴァかあさん」(Mãe Genoveva)という短編小説などは、
それがよくわかる一例の作品であると思います。

彼の文は、小説にもかかわらず、
詩の様な表現で書かれています。
つまり・・・・
難しいんです。
物語がつかみにくい。
しかし、多かれ少なかれ、
ある種の近代ポルトガル文学にはそういった面があります。
こうした作品が日本であまり理解されにくいのは
日本人がそうした作品に慣れていないからでしょう。
では、そういった作品は、なぜ日本で生まれないのか?
ポルトガルは、良い意味で、
芸術がまだ全盛期だった頃の力を持っている国だと感じます。
芸術が研ぎ澄まされ、開拓された地域では、
洗練された文学は詩になりうる・・・
しかし、それを楽しむには、やはり「慣れ」。
洗練された読者が必要なのでしょうね。
日本は、そういった方向には進まなかった。
もっと、娯楽としての方向に文学が進んだのだと思っています。
(例えば日本では、「多くの人に受けない。わかりにくい」
という理由で却下されてしまう作品が沢山あります)
さて、ヴェルジリオの話に戻りますが、
彼の作品は、小説として読むのではなく、
それこそ詩作品として読むと、
素直に受け入れる事ができるのではないかと思います。
(テーマやメッセージは、逆にしっかり存在しているので、
それを各々に考え、研究するのも楽しみの一つとなります)
こうした詩的技法、言葉の実験的な遊びは、
大小あれど、そもそも近代スペイン、ポルトガル文学の
作品全体の特徴でもあります。
そして、それがラテン文学の面白い所!!
芸術において、世界でも頂点で繁栄を誇った
南ヨーロッパの芸術は、
確かに現代の日本では
「わかりにくい芸術」として「苦味のある芸術」として
区分されてしまうのかもしれませんが、
苦味のない山菜に旨みなど無し!!
そうした難解さこそを楽しむ、洗練された深層に突き刺さる芸術が、
これからの日本に必要とされてほしいなぁなんて思います。
あえて特に内容は紹介しませんでしたが(笑)、
もし、良かったら、
「どんな風(文体)な作品なのだ??」と思って、
「ジェノヴェヴァかあさん」(Mãe Genoveva)を読んでみて下さいね(笑)
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