福岡・多々良浜古戦場 | しーのーと

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ぶちでかいホームラン、待ちよるんじゃけぇ

九州縦断旅行・第二弾は多々良浜です!

浜といっても砂浜が広がっているわけではなく

現在の多々良川下流域です

この地では建武期に楠木正成北畠顕家らに

京を追われた足利尊氏が勢力を巻き返すきっかけとなった

多々良浜の戦い」が行われました

 

川沿いを河口から上流へ向けて進んでいきます

この日は日曜日の午前

散歩やジョギングをする地元の方が大勢いらっしゃいました

川のせせらぎ、水鳥の鳴き声、たまに飛行機のエンジン音…

のどかな休日のゆっくりとした時間の流れの中

せっせと歩みを進めてゆきます

北岸を進んでいくとこんなものが

細川幽斎の歌碑でした

歌碑の横には案内板が

13世紀頃のこの地域の地図、むっちゃありがたいです

案内板にある足利方の本陣「陣の越」はこの小高い丘でしょうか

だとするとまさにこの辺りが激戦が繰り広げられた場所…かな?

事前にもっと調べていくだった、と反省


ここ多々良浜では戦国時代にも

「多々良浜の戦い」が繰り広げられたそうです

大友方の稀代の名称・立花道雪

毛利両川とうたわれた吉川元春小早川隆景という

西国の名将同士が対峙した戦いでもありました

陣の越にほど近い場所からその激戦地であったという川上を望みます

対岸に渡り、少し進むと古戦場碑があります

手前の『史記』にはこのような記述がありました

「太平記や梅松論や宗像軍記によれば この地一帯は

延元元年(一三三六)三月二日に足利尊氏と菊池武敏らの

天皇方とが決戦をした処で 近くにあった花園森を 民間では

菊池方の墓地として祀ってきた またこの六ノ坪という

小字は古代条里制の遺称で 構内からは中世以前の

陶磁片が出土し 津屋の五山文学関係の顕孝寺跡と共に

文化史上の遺跡である なお連歌法師宗祇󠄀や関白豊臣秀吉らが

通った泻沿いの古道は 原田浜田を経て香椎の方へと通じていた」

古戦場碑の隣の案内板には「多々良浜古戦場の図」

描かれている丘が「陣の越」なのでしょう

この古戦場碑、道路わきにむちゃくちゃぽつんとたってます

さらに少し行くと兜塚と呼ばれる場所が

先ほどの古戦場碑あった「花園森」がこのあたりのようです

 

---多々良浜の戦い(建武三年)---

摂津・豊島河原の戦いで天皇方の北畠顕家らに大敗を喫した

足利尊氏は九州へと逃れ、再起を図った。

しかし九州では勤皇派の菊池、阿蘇らが九州武士をまとめて

待ち構えており、尊氏に味方したのは少弐頼尚だけだった。

圧倒的な戦力差の中で両軍は多々良浜に布陣するが

両軍激突の前に突如として強い北風が吹く。

尊氏らは追い風に乗り一気呵成に攻勢を仕掛け、

その勢いに押された天皇方からは離反者が続出。

結果的に尊氏が勝利し、西国武士を統合し勢力を盛り返していく。