カープアーカイブス

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広島カープは世界でも類をみない被爆からの復興のシンボルとなり、街を活気づけた歴史や精神がある。
これは広島の財産である。この財産を永遠に残すためにここで語り継ぐ!

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あわやノーヒットノーランを小鶴が本塁打!1安打で勝利!

1956年 3月25日 対大洋 2戦 広島

スコア 

1-0 勝 太田垣 負 秋山


広島ファンからしてみれば大喜び。大洋ファンからみれば、

悲劇の試合がある。

この試合、後に殿堂入りする秋山登が8回ツーアウトまでノーヒットノーランであった。

しかも秋山はルーキーであった。

しかし、そのルーキーは日本では珍しい速球派のアンダースロー。

特にシュートが手元に切れ味鋭く食い込んできた。

大物感たっぷりの貧打線のカープはお通夜になっていた。

しかし、1人違った男がいた。

小鶴である。

経験たっぷりのこの男はルーキーに負けてたまるかと意地で打った打球はレフトスタンドへ。

そのまま1安打で劇的勝利をおさめた。

秋山にプロの洗礼を浴びせた。

小鶴は1955年からカープの主将になり、チームを引っ張った。

それにファンも応え、小鶴が移籍した年に小鶴はオールスターにファン投票1位で出場している。

そんなファンに愛された小鶴は1959年2月22日に22000人のファンに囲まれて引退式を行う。

持病の腰痛を抱えながらのプレーで全盛期の力は発揮できなかったがそのプロ魂はチームやファンに

伝わっていた。


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小鶴がカープに移籍した翌年の1954年2月にジョー・ディマジオとマリリン・モンローが新婚旅行で来日

した。この時の様子を球団職員であった渡部氏から前にインタビューで教えていただいた。

ディマジオは56試合連続ヒットのメジャー記録を持つ、ニューヨークヤンキースの大スターで人気絶頂

であったハリウッド女優モンローと結婚する。

2人は2月12日、13日に広島へ滞在する。

1951年にすでに引退していたが、野球指導に熱く、この2日間ディマジオの師匠であるオドールとブラウ

ン3人でカープの指導に当たった。

カープは大選手に指導してもらえると意気込み、熱心に指導を受けた。

それにディマジオは応え、2日目の13日は午後からだったのを11時に繰り上げた。

選手はどんどんと練習に熱を帯びていく。しかし、もっと熱が帯びた瞬間がある。

夫人であるモンローがサプライズで球場へ現れたのだ。

観客も1番の盛り上がりを見せ、モンローのところへ殺到する。

投手陣もすぐさまモンローのところへ行った。

一方、ディマジオに指導を受けていた打撃陣はディマジオが指導をやめないので行こうにもいけなかっ

た。

そうディマジオはモンローの人気に嫉妬していたのだ。

この時のことが離婚の原因になったという逸話も残っている。


しかし、カープにとっては球団史に残る大きな出来事であった。


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金山とともに来た超大物と言えば小鶴誠だ。

金山が足で魅せれば、小鶴は打で魅せた。

社会人野球の八幡製鐵所後に1942年に名古屋軍に入団。

1年目からレギュラーとして活躍する。

終戦後、1946年に中部日本軍に復帰するものの、1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると

後を追って退団。

金山の回でも書いたが、急映フライヤーズに移籍。

この時、元ゴルファーの新田恭一に指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つゴルフスイング

打法を習得。

小柄で腕力もない小鶴は腰の回転を利用し、バットを下から上へと振り上げる姿は美しく、人々は魅了

され、ゴルフスイングは流行語になった。

1949年に大映スターズに移籍した後、打率.361で首位打者を獲得。

1950年、松竹ロビンスに移籍。

この年に小鶴のスイングは完成する。

驚愕の打率.355、51本塁打、161打点でリーグ優勝に貢献。本塁打と打点の2冠王、MVPを獲得。

(この年の161打点、143得点、376塁打は現在でも日本プロ野球記録である。)

しかし、シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症。

この年の故障が後々、この大選手を苦しめる。

治療法が確立されていない中で、痛みをだましだまし行うが成績は低迷。

そんな失意の中で、もうひと花さかせるために1953年にカープへ移籍。

金山とともに盛大に迎えられる。

その街の盛り上がりに呼応するように本塁打は14だったが、自己最多の33盗塁を記録。

金山とともにカープ野球の礎を作った。

1958年に引退。

本塁打や打点の記録に注目されるが240盗塁を記録した足と強肩も評価が高く、打って

走れて、守れての3拍子揃った選手が多いカープの元祖である。

そして、その風貌や美しい打撃フォームは伝説の大リーガージョー・ディマジオに

似ていると言われ、「和製ディマジオ」と言われた。

そのディマジオ本人も広島の地へ来たことがある。そのディマジオについての

エピソードを次回お届けする。


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