GW前ですが、高麗神社を参拝しました。

こうらい神社と呼んでしまいますが、こま神社です。

 

JR高麗川(こまがわ)駅から徒歩20分。道に人がいないので不安になりつつ(笑)、Googleマップを頼りに

歩きましたが、要所には案内板もあり、迷うことなくたどり着きました。

 

 

天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。その中に「二位玄武若光」がいました。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。

 

高麗神社HPより抜粋 

 

 

 
霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第7の記述)。この時、若光は郡の長官に任命されました。若光は郡内の高麗人をよく指揮し、未開の地を開発し、この地で波瀾の生涯を終えました。郡民はその徳を偲び、その霊を祀り、高麗郡の守護神としてまつりました。
 
高句麗が滅びてから、高麗群ができるまで50年ちかい歳月がたっており、高麗群ができたのは若光の晩年であることがわかります。若光は都で丁重に遇されヤマト王権に官人として仕えて活躍していたようです。
その後そのまま都で余生を過ごすのがよかったのか、
もしくは、現代風に言うと定年後は都からは離れるけれども地方に土地を与えられての村を開拓して住んでいいよと言われてそれに応じたのか、
若光が高麗人の村を作りたくてそうしたのかそのあたりはわかりません。
 
現代の感覚では、この地に移住するのはちょっと都落ち的な感じかなあとも思えるのですが、

7世紀の日本は、奈良の中央政権ちかくには百済の勢力や新羅の勢力もあり、政争に巻き込まれず静かに暮らせる場所、

まだ開拓されていないので自由が保障される場所であり、

そして秩父がまあ近いので、当時の秩父は東国では中心であったので、そこまで悪い場所ではないのかなとも思いました。
 
こちら出世神社としても知る人ぞ知る神社でして、拝殿前に名刺を置く台がありまして
たくさんの名刺が参拝の証として置かれていました。

 

 

 

代々の高麗家神主の住宅を見学できます。(重要文化財)

 

飛鳥時代の衣装が展示されています。色使いが派手で華やかですね。

 

 

 

ここから隣の聖天院へ。高麗神社の別当だったお寺で、こちらの建築は大変立派で往時をしのばせます。

 

この門は一見の価値あり。東京の国分寺楼門【市重要有形文化財】よりも立派です

門をくぐって階段をさらにのぼると見事な庭園が広がります。

 

 

 

本堂は平成に改築されたそうです。大きくてなんというのか、山の上に建つ感じといい

お寺というより城のような雰囲気も感じました。

眼下に高麗群が見下ろせます。

 

 

大陸的な雰囲気がありますよ。異国情緒まではいかないけれども、日本的とは違う雰囲気のような。

 

若光の墓。王廟です。

高いところにあるかと思いきや、下に。。。これは意外。

 

いま、日本にも戦争からの避難民がきています。国が滅びるということを

私たち日本人は経験していない、それは本当に幸せなことだと思いました。

 

祖国を遠くはなれて異国の地で生を終えるというのはどのような気持ちなのでしょうか

せめてそれが安らぎの中で迎えられるものであってほしいと思います。

このお墓が今までも大切にされてきたこと、これからも大切にされていくことを祈ります。

 

そしてこれからもそういう日本でありたい思いました。