ヨハネ4章1-42節(イエスとサマリアの女)

 

B.C.733のシリア・エフライム戦争の結果、B.C.732に北イスラエルはサマリア以外の領地がアッシリアに奪われ、そしてB.C.722にはサマリアも陥落し、北イスラエル領は異邦人の地になりました。その結果、南ユダの人々は北イスラエルの人々を混血として嫌悪するようになりました。

 

族長時代のイスラエルは色々な場所に主を礼拝するための祭壇を築きました。主への礼拝は1つの場所ではなく、様々な場所でなされていました。その場所は、イスラエルの民が神体験をした場所に築かれていました。礼拝は、神と関わった場所で、どこでもなされていました。また、荒れ野時代のイスラエルは、民の中心に主の臨在の幕屋を配置し、主の臨在の幕屋を中心に移動し、民はいつでも、どこへ行くにも主と共に、主を礼拝しながら生活していました。その後、ソロモンによってエルサレム神殿が建設された後、ヨシア王の申命記改革の際に、祭儀一極集中がなされました。様々にあった地方聖所が破壊され、エルサレム神殿でのみ礼拝を捧げることが正当化されていきました。南ユダの人々は申命記改革によってエルサレム神殿でのみの礼拝を捧げるようになりましたが、サマリアの人々は、彼らも共有していたモーセ五書の申命記に則ってゲリジム山を祝福された場所とみなしゲリジム山で礼拝していました。

 

しかし、南ユダも、B.C.587に新バビロニアによってエルサレム神殿が破壊されました。バビロニア捕囚を経験した後、ある人々はエルサレムに戻り、第2神殿を建設して変わらずエルサレム神殿のみでの祭儀を生きましたが、他の人々はバビロニアに残ったり、周辺国家に散らばったりしてディアスポラになりました。ディアスポラのユダヤ人たちは、神殿ではなく、それぞれの場のシナゴーグで集会を開き、それぞれの場で礼拝を捧げました。

 

イエスはこのようなユダヤとサマリアの対立に対して、サマリアの婦人に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。……まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:21-24)と言われ、人間によって徐々に変化し、膠着化させられた礼拝様式を、神の自由と人間の自由に返しました。

 

神は自由です。神はどこでも、どのような出来事を通してでも私たちと関わってくださっています。私たちは、どこでも、霊(真心)と真理によって神と関わることができます。そしてそれは、霊(真心)と真理によって他者と関わることを通して神を礼拝することへと開かれています。

志村神父