生まれつき目の見えない人は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た

(ヨハネ9章1-41節)

 

 本日、四旬節第四主日は、世界中のカトリック教会において、復活祭に受洗して、新しい家族の一員に加えられる見込みの洗礼志願者の典礼が行われる。それは、三週間前の四旬節第一主日に行われた洗礼志願式に続くもので、より大きな力に覆われて、自らの求道が独りよがりではなく、確かな存在からの呼びかけに応答することを通して信仰は単なる人間の能力ではなく、恵みによるものであることを実体験する大切なステップでもある。

 洗礼志願者の典礼では、志願者たちの目が開かれるよう特に祈られる。開かれるのは、肉体の目ではなく信仰の目である。肉体の目は、様々な要因によってものを見ることを困難にさせられるが、信仰の目もまた、相応しい状態でないならば、ぼやけたり、曇ったり、ゆがんだり、用をなさなくなることがあり得る。まして、見えていないのに見えていると勘違いが常態化するならば、むしろ、目に頼らない方が賢明である。

 さて、私たちは日常生活のあらゆる出来事を信仰の目をもって眺めているだろうか?洗礼志願者の典礼を契機として、信仰の恵みを頂いている者、あるいは求めている方々も、一度胸に手を当ててみてはいかがであろうか?この行為を糾明(心を調べる)といい、ミサ聖祭の冒頭で毎回呼びかけられているのだが、ミサのプログラムの一部として(内的に)立ち止まることがないなら、その後の典礼、キリストとの出会いと交わりにも影響が出る大切な行為なのだが、さて・・・?

 

 本日の福音は生まれつき目の不自由な青年がイエスとかいう通りすがりの方に触れてもらい、指示通りにシロアムの池に行って目を洗ってみたら、目が見えるようになった(ユダヤ教的には「清められた」)・・・めでたしメデタシの話のはずが、その日が安息日であったために、「こんなトンデモないことをしたのは誰だ?」とファリサイ派の人々の追及を受けるが、青年の方は情報が限られていて、不自由な固定観念はなく、何より実体験があるがゆえ、ごくごく単純にしかも事実しか答えられず、そのことが権威者を自認し「誰よりも見えている」と思っているファリサイ派の人々をイライラさせる。ソクラテスの「無知の知」を彷彿とさせるエピソードである。

 第一朗読でサムエルは「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とたしなめられ、第二朗読で聖パウロは「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と教会員たちに訴える。主に結ばれて、光の子とされた私たちは、主の観点を授かっている。今日の典礼を契機として、闇から光に移し替えられた自らの恵みを振り返り、主の観点であらゆることを見なおしてみると、見過ごしていた大切なことを見出すことはよくある話で・・・復活祭に向けて、主の輝きが強まりますように。

数え直すと14年ぶりになります。上野毛に戻ってきました・・・大瀬神父