自己肯定感と自分。 | 時代の片隅で...

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70年代や80年代のレトロなものが好きです。
日々思うことを書いていきたいと思います。

どうもこんにちわ。

『おつち』でございます。

自己肯定感について考えてみました。私の経験談になるので長くなります。

お時間が痛ましい方はスルーしてくださいね。



『おっ!なんだ?面白そうな...』と思う方で時間の許す方は進んでくださいよ。とりあえず飲み物でも用意して。

掛けませんか?


じゃ、はじめます。よござんすか。



自分を否定して辛くなることって有りませんか?
『自分はこんなもんだったか。』とか『ダメダメで生きてる資格もない。』とか...

私はずっとそんな思いで生きてきました。
そうするとやること全て裏目になり『頑張れ』とか『まだまだ大丈夫だよ』とか言われるとそれはそれで、イライラしました。

『お前らと違うんだよ!』

と、自分の劣等感をプライドでカバーしてなんとか生きているような状態。しかも友達が距離的にみんな離れたりして、自然消滅。もともと少ない友達がいなくなり、完全に一人になりました。

それでも、毎日仕事も辛いし、悩みができても相談できる相手もいない。答えを出すためのヒントは、東洋哲学だけ、あとは自分で考えるしかなかったのですよ。

家族?ああ、親は私を全否定してくるので、それをかわすのがやっと。自己肯定ってそんな状況じゃできるわけないんですよね。


自己肯定への一歩に気がついたのは、自分のことを振り返って、どんな生活をして、どこでつまずいたのかを考えたことです。

子供の時期に、それも幼い時につまずいていたんです。

生きていくために、顔色を伺い、我慢して、自分の思いを出せずに生きてきた。自分を曲げるというか、愛されなかったというか...

でもね、そんな人はいっぱいいるわけで、自分だけが特別じゃない、もっと苦労している人だっているんだという気持ちになりませんか?私は人に言われたこともあって、そうだなと思っていたんです。

それが大間違いでした。

その辛いことをスルーしていたんです。
つまずいた所に、決着をつけて居なかった。

だから、何度も劣等感が襲ってくる、そしてプライドで乗り切るってことで悪循環していた訳です。

私はまず幼少時代の感情や苦しかったこと辛かったことを全部ありったけ思い出してみました。すると普通だと思えたことが普通ではないことに気がついたのです。

いかに普通ではない中で小さい私は生きてきたんだ。

と、始めて自分を評価することができたのです。しかも病気がちで、子供ながらに喘息の苦しさに耐え顔色を伺って、暴力にも耐えて。

よく生きてきた。

普通の何倍も大変な中で自分が大人になり、それで普通の感覚の人達と合うわけがないですよね。それは私の生きてきた証なんだと思うようになってから、自分を認めることができるようになりました。

苦しみをよく生き抜いた。よく死ななかった。

そう思えば劣ってるとか、自分を否定して苦しめるとか考えるのがどうでもよくなりました。

自分を肯定するには、苦しいけど一旦どんな生き方をしてどこでつまずいたか?見つめ直す必要があると思います。

そしてそれを認めること

決着をつけることで、自分を肯定でき人も肯定できるはずだと私は思います。