皆様、明けましておめでとうございます。

新年に近隣県の実家に帰り親族と話していて、私の中で推測から確信に変わった仮説が二つありましたので、今日はそのことについて触れてみたいと思います。

親族と一緒に池上彰氏の正月特番を見ながら話していたのですが、彼は「世間では人々がお金がなくて大変なのに株価だけが上がっている。なんか不自然だしおかしい。いずれ何かあったら崩壊するのではないか。国債もどんどん刷っているがこれも何かあったら破綻するだろう」と言っていました。

勿論、経済学徒の私は「金融バブルのほうはいずれ破綻を迎える可能性もあるが、国債が破綻する心配はないから大丈夫だよ」という向きで少しだけ貨幣論の話を交えて説明しましたが、本人は「いや、何かあったら国債も破綻するかもしれない」と納得できない様子でした。

上記の親族の論理を「モリモリ積み上がった得体の知れないあぶく銭はいずれ破綻する論」とでも言い換えたいと思います。

マクロ経済、特にポスト・ケインズ主義やMMTなどの貨幣論の理屈を知らない人にとっては、発行国債額の膨張と金融バブルの膨張は同じようなものであるように感じられるみたいなのです。

ウチの親族は朝日新聞購読者なのですが、私は以前から「ひょっとして左派リベラルの多くが『財政破綻』という荒唐無稽なデマを信じてしまうのは、それを金融バブルと同じように認識しているからではないか」と推測していましたが、本件でその推測が(僅かサンプル数1ではあるが)確信にかわりました。

普通の人にとっては「何の苦労もしてないのに、お金が無からどんどん生まれるわけがない」と直感的に考えてしまうため、このような誤謬が起こるのも当然なのだろうと思います。
言わずもがなですが、発行国債額と金融バブルはまったく別のロジックをもって積みあがっています。

以下のツイートは新年早々、反緊縮派からバカ扱いされていましたが、彼の気持ちもわかるような気がします。
彼のハイパーインフレ脅威論も「モリモリあぶくゼニ破綻論」の一種でしょうが、「自然界でこんなことはありえないからいずれ破綻するはずだ」という向きで直感的予測が展開されてしまうのでしょう。
「レミングの死の行進」のような状況をイメージしているのかもしれませんし、なにか「質量保存の法則」に反するというような実感からこのような感覚になるのかもしれませんが、当然ながら、株価やBTCの爆増とHインフレには何の相関性もありません。

 


我々反緊縮派はこの「モリモリあぶくゼニ破綻論」に対して、信用貨幣論などの長ったらしい説明を伴わずして相手を直感的に納得させられる有効策がないのもまた悔しいところですが、しかし多くの場合、これらの人たちが「財政破綻はありえない」という事実を受け入れられないのは、以下のような経済再生担当大臣をはじめとしたポンコツ政治家や池上彰氏らプロパガンダマンが大メディアを通じてトンデモ論を発し、国民を洗脳してしまっているからではないでしょうか。

 

 

ある程度マクロ経済学の知識を有した皆さんなら即わかるように、西村ポンコツ経済担当大臣は、実体経済と金融経済の区別がついていません。
おそらくこのド素人は実体市場と金融市場で使用する貨幣の種類が異なることさえ理解していないでしょう。

経済担当大臣が「日経平均株価が過去最高なので日本経済は成長するぜ!」というような認識のもと、日々誤謬に彩られた発信を重ね、それを大本営メディアも無批判に垂れ流しているのですから、勘違いしてしまう人が量産されて当たり前です。

でも…、例えばですが、おそらくウチの親族も含めて日本国民の半分くらいは「金融資産のある金持ちがいくら儲かっても、俺たちの家計には関係のないこと」と、理論的背景を知ってか知らずかナチュラルな実感として「トリクルダウン理論など非現実的だ」という事実を共有していると思います。
しかし「なぜトリクルダウンが起こらないのか」という理論的なことを説明できる人は少ないでしょう。

理論的なことをざっと説明するなら、金融機関間取引(株や債権の売買)は、準備預金という、我々一般人(民間非金融部門)が使うことのできない現預金通貨ではない貨幣を使用していることが、まずその理由の一点目としてあげられ、そしてもしその金融機関との取引を介して金持ちが現預金通貨を手に入れたとしても、消費性向(所得に対する消費の割合)が低いため実体経済市場にお金が還流しないということが二点目にあげられます。
 

図① :銀行間市場(金融市場)と預金・貸出市場(実体市場)の二種類の貨幣(日銀当座預金=準備預金と銀行預金=通貨)の動きを可視化した簡略図。
 

ですから株価が上がって金融機関やお金持ちが儲かっても、殆ど実体市場向けには使いませんし、彼らはさらに儲けてやろうと再び金融市場に投機するのみとなります。

日銀がどんなに量的金融緩和やETF買いなどで金融市場にお金(準備預金)を投じて金持ちのフトコロを肥えさせても、金融バブルを作るだけですし、量的金融緩和を講じても実体市場にはそもそも需要がないのだから、わざわざお金(通貨)を借りて設備投資しようなんて人もあまりいないので、民間銀行の信用創造が生まれず、実体市場に対して通貨も創造されません。

さらに言えば、量的金融緩和やトリクルダウン理論というのは、我々中下層の人々に富を届けることができないどころか、金融の不安定化を招き、実体経済市場に向かうはずだった設備投資費などのマネーを投資家や資本家が金融市場に”全振り”してしまうことで通貨流通量の過少化をもたらします。加えて、そのことが実体市場の低需要状態を常態化させ、格差を拡大させるなど負の側面がとても大きいものなのとなります。
100害あって1利なしとは言いませんが、93害あって7利くらいしかないのだろうと思います。
「利」の部分は、企業の株価や時価総額の崩壊を食い止められるということになりますが、それ以上に「害」が大きすぎるのだということです。

ミンスキーの金融不安定仮説など知らずとも、金融バブルは必ずはじけ、実体市場にいる我々に不況や失業という悪影響をもたらすことは誰にでも理解できるでしょう。現在の株高は日銀がETF買いで無理やり支えている状態となります。
この不自然な状態が今後どうなるのかは、私にもよくわかりません。

さて、ここまでの説明で、金融バブルの膨張がどれだけ負の側面を内包しているのかお分かりいただけると思いますが、発行国債額(累積債務額)の膨張のほうも簡単に考えてみたいと思います。

 

もう一度「図①」をご覧いただきたいのですが、「政府支出だけは”超えられない壁”を超えられる」というような記述があります。
実際にはもっとややこしい経路を歩むのでこの図の通りではありませんが、簡略化すると、政府支出だけが直接皆さん(民間非金融部門)に通貨を届けることができるということです。

しかもこの政府が作ったお金は、皆さんが民間金融部門(銀行など)からお金を借りて信用創造させた場合の「負債としてのお金」とは違い、政府が国債を発行して借金を肩代わりして創造してくれるものなので、受け取った側にとっては借金でもなんでもなく、純粋な資産となります。
コロナ禍で10万円の給付金が振り込まれた時、ただ純粋に皆さんの口座の預金額が10万円分増えましたが、そういうイメージになります。

では、政府はそのお金をどこから借りているのかというと、自分の子会社である日本銀行です。

政府が国債を発行して、日銀の発行する準備預金と交換して、通貨としてお金をこの世に表出させています。
「自分でお金を作って自分に貸している」もしくは「右のポケットから左のポケットにお金を移しているだけ」の状態なのですから、一生破綻することはありません。どうやったって財政破綻することはできないのです。
この話は「ラーナーの機能的財政論」というのですが、気になった人はググってみてください。



ですから、この「モリモリあぶく銭破綻論」は本来は種類の違う貨幣(例えば国債や債券も負債の一種ですので貨幣のいち形態となる)を混同した結果生じる誤解なのだと思います。
貨幣にはいろいろ種類があって、先述したように、準備預金(日銀当座預金)・通貨(紙幣や預金)・国債・債券・ビットコインなどが挙げられます。
理論上、国債はいくらでも発行し続けられ、その国債と交換する形で日銀に発行される準備預金も上限がないはずですが、金融市場の参加者がポンジスキームによって債務を重ねて得た投機用マネーを投入し続けたとしたらどうなるのかわかりません。


最近の大本営メディアは、PK派やMMTerが「財政破綻しない」ことを証明してしまったので、財政支出のし過ぎで金利が暴騰し利払い不能になるとか、円の価値が毀損されるとか、日銀の債務超過破綻などにそのデタラメ破綻論を寄せてきていますが、そのことに対しての反駁はまた別の機会にしましょう。


 

さて、私にはもう一つの仮説があって、これも思わぬ形で自分なりに確証を得ることができました。
それは「自己責任論」や「合成の誤謬」に関わることです。

実家にいる間、小学三年生の甥っ子と小学五年生の姪っ子と、マインクラフト内で彼らが経験したことのないような巨大建造物を創作する共同作業を通じて親交を深めていたのですが、マイクラの賑やかな世界と、我が地元(東京都から電車で5駅くらい)の過疎っぷりについて比較するような話題になりました。

私が「俺が子供の時にはウチの近くにコンビニが2軒あったんだけどどんどん潰れていってしまったんだよ」と言うと、小3の甥っ子がなぜなのかと聞くので、「昔はモノを買ってくれる大人も子供もいっぱいいたからね」と返すと、また彼がなぜ子供が多かったのかと問い返すので、「子供を育てるにはお金がたくさん必要なんだけど、今は給料が少なくなって無理になったから子供の数も少なくなったんだ」と答えました。
すると甥っ子は「そんな不満ばっかり言ってもしょうがないじゃん!頑張らないと!」と声を荒げたのです。
私は少し驚きましたが、「いやいや、そうじゃないんだ。日本政府がお金をいっぱい出さないと給料ってのは上がらないんだよ」と答えましたが、彼は「ふーん」と言いながら聞いていました。


政府支出と民間給与の不思議な関係。詳細は割愛するが、政府支出の増大は民間給与の増大に直結する。

彼が世の中のお金の流れの一端でも理解できたとは思いませんが、確かに彼が意図した「不満ばかり言っててもしょうがない。努力すれば未来は開ける」というような自己啓発風味の人生教訓を誰もが指針として携えながら生きています。
しかし、私はこの件で「何か悪いことが起こると自分の努力不足のせいだと考える」のは、ある意味「子供の発想」だと強く気づかされることになりました。
彼は、半径数mの範囲内で起こる事象を繋いで組め立てた構造を世界そのものとして知覚しているため、想像の外側で起こることこそが物語の本質であることを認識することができません。

本記事の前半で私が述べたことなんかは、貨幣論を学んでいる人ならごく当たり前のこととしてすっと入ってくると思いますが、それ以外の人にとっては聞いたことのない話で、彼らの実感とは構造が逆転してしまっていると感じるのだろうと思います。

私はたまに専門外の人と会う時に貨幣論的な話や、ネオリベや自己責任論がいかに醜悪な思想なのか語ったりしますが、正直言って彼らにより毎度繰り返される「社会のせいにするな」といった類の愚かな反論(反感)にはイライラしますし、殆どの人たちは甥っ子が発したような「子供の発想」のまま何十年も生きているのだと感じ落胆する次第です。

そのうちの少なくない人々は、話をした時のその場では理解を示しますが、その人だって普段から「自分が今取引先からお金を貰ったことはバランスシートで考えると取引先の資産が自分の資産に振り替えられ…」みたいなことを常に考えて生きているわけではありませんので、次の日にはすぐに忘れ、また「奪い合い」の日常に没頭するのです。

多くの人たちは基本的に、世の中を良くすることより、自分と自分の周り半径3mの範囲内を良くすることしか考えていませんし、身の回り3mを良くすることの集合がマクロの経済を良くすることとして成り立っているのだと勘違いしています。(この勘違いは「合成の誤謬」とも関係します)
また、たいていの場合、その僅かな想像力が発揮されるのは数年に一度の投票行為のみとなります。
勿論、人間なんてその程度で十分なのかもしれませんが、マクロ視点で半径300Km範囲を良くすることこそが自分や家族の利益に直結するということが想像できないというのは極めて重大な問題です。

私の仮説とは「『努力すれば成し遂げられる』という自己啓発的思考が自己責任論を助長、ネオリベを育成し、『合成の誤謬』と掛け合いながら誤った社会を形成していく」とでもまとめればよいのかもしれません。
「自己啓発 → 自己責任論の共有 → 無意識の”合成の誤謬” → ネオリベへの進化 → 社会の破壊」とかって風に表現できるかもしれません。




「合成の誤謬」は個人や企業が節約すると、マクロでは景気の悪化につながるというものですが、同じような視点で考えると、信用創造という過程を経ない民間非金融部門間の商取引は、「奪い合い」でしかありません。
数量に限りのある貨幣を右から左に、また左から右に動かしているだけに過ぎないということですし、他人から富を略奪する能力に長けた者だけが無駄に富を蓄積してしまうという、人類共通の目標であるはずの「社会の発展」とは程遠い矛盾に満ちた結果を導くことになります。

普通の人たちは「労働対価としてお金を貰ったこと」や「下請けを値切ったこと」「人件費を圧縮したこと(自社の従業員の搾取)」を、誰かから何かを奪ったなどとは考えずに過ごしていますし、むしろそのお金を得た瞬間を「新たな富を創出した」くらいに感じているでしょう。

そうやって他人から奪った富がどれだけ多いのかを、また奪った金で買った財がどれだけ高級なのかを自慢さえしている(苦笑)のですから、この愚かな価値基準は私をただただ憤慨させるばかりです。

上述したように、非金融部門の我々が財産を築く方法は、銀行の信用創造を介して得た通貨という名の負債を元手にしなければなりません。(自分が借金していなくても、誰かが借金したお金を我々は手にしています)

一方で我々の視点で見た場合の「債務性のない通貨」を手に入れるには、我々に代わって政府が負債を負うこと(自分の一部である中央銀行から借りて)で通貨を実体経済に創出するしかありません。

政府しか実体経済に債務性のない貨幣を創出できる存在はいないのですから、我々市民は困窮を脱し豊かになるためには、政府に対して「もっと金を出せ」と圧力をかけるべきなのです。
しかし、殆どの人たちは自己責任真理教の教義そのままに他人からより多くの富を奪うことを、何よりも良きことのように考えるのですから救いようがありませんし、彼らが基本的な権利を行使し何かを政府に要求し、世の中を変えようとすることもありません。ただただ、「他人からどうやってうまく奪うか」ということのみを考えて生き続けるだけなのです。

こうして債務ヒエラルキーの構造の下、小型のグローバリストやネオリベ、自己責任真理教信者、意識高い系が量産されていきます。

下の映像ような糞ネオリベはその産物、というか成れの果てでしょう。

 

 

腐りきった為政者の下僕となって世界を破壊し続けることや、他人から何かを奪うことに熱意を傾ける時間がふんだんにあるのなら、1日の内のほんの10分間でいいから政府に貨幣を創出させるよう圧力をかけるような行動をとってほしいし、もしその知識や行動力がないというのなら先頭に立って活動している「れいわ新選組」や「薔薇マーク」に募金をしてほしいとも思います。


12/30に以下のような時事通信の記事がありました。
 

今年度の第3次補正予算と2021年度の本予算案の編成が終わった。コロナ禍からの脱出という錦の御旗の下に、財政膨満問題を解決する方途は示されず、将来世代に大きな荷物を背負わせる結果になった。
(中略)
例えば、東日本大震災の後に政府は、復興特別税を法人・個人に課し、個人課税は今も続いている。コロナ禍を「国難」と位置付けるならば、国民は総力を挙げて立ち向かわなければいけない。その覚悟を示す意味では「コロナ課税」といわれるような特別増税を断行するのも一案だ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/22eb6aa978448242b61fd2ce7afed0fedd9f1b17

 

国民に対してまともな額を支出していないにも関わらず搾取することばかり考え、復興税のような増税を薦める記事です。
「国民の労働を通じて得た富に徴税し、その税で国の財政を支えなければならない」という完全に倒錯した価値感に則った、気が狂ってるとしか言えない記事です。
(「税は財源ではない」ことを示す説明はこちらこちらにまとめてあります。)

記事では東日本震災後の復興税に触れていますが、災害後に疲弊する国民に対して増税するなんていう政府は世界のどこにも存在しないし、愚策中の愚策です。これも「子供の発想」のまま大人になってしまった人のとんでもなく誤った政策です。

この記者は貨幣の創造と循環の理論を一切理解していませんし、庶民に増税を課すことでさらなる不況が起こることも想像できていません。
このように極めて頭の悪い記者が平然とデマカセを書いて世論誘導を行っているのですからこの国は地獄でしかありません。
このまま「子供の発想」を強制する人たちが社会を蹂躙し続けると、我々国民は近いうちに確実に殺されます。

 

先日、薔薇マークの呼びかけ人に名を連ねる内田樹先生(神戸女学院大学名誉教授・京都精華大学客員教授)の記事を読んでいて、以下のようなニーチェのQuoteを見つけました。
 

 

為政者への隷属に関してはフロムの「自由からの逃走」なんかにも通じますが、現代の隷属は「財政規律を引き締めよ」だとか「庶民への税率を上げよ」、または「自己責任でやれよ」なんていう「主人の眼で見るようになった一般国民の誤った思い込み」によっても強化されていきます。
しかしこの「主体性のパラドックス」ともいえる現象は、哲学的な思考を巡らせるだけでは回避できず、やはり少しばかりの貨幣論の知識が必要になるのだろうと思います。
おそらくそれは、60年代の学生運動時代の団塊の世代に起こったマルクスの資本論を介した価値転換と似ているのでしょう。


本日はここまで。

皆さま、今年もよろしくお願いいたします。


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