https://www.donboscosha.com/product-list/292

 

ローマ教皇フランシスコ氏の、10月4日のネオリベ批判演説が大きな話題になりました。

固有名詞までは挙げませんでしたが、ギリギリの比喩や遠回しな表現を使いながら、明確に特定の勢力を批判する前代未聞の踏み込み方をしていて、私も大興奮した次第です。

その発言の要旨を、まずは報道記事でつかんでいただきたく思います。
 

「新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)は市場の力だけに頼ったり、富裕層や大企業の優遇を通じて貧困層まで富を浸透させようという「トリクルダウン」を期待するだけの政策では社会的恩恵が生み出せないことをあらためて示した」

「(コロナ禍発生後も)市場の自由がすべての保障をもたらすとわれわれに思い込ませようとした人々がいた。ネオリベラル信仰というこの教義は、通貨浸透説という魔法の理論を社会問題の唯一の解決手段としてそこに逃避するもの」

「2007─08年の金融危機は変革の機会だったが逃された。社会は『通貨の帝国の破壊的作用』を直視しなければならない」

▼ロイター 新型コロナは自由市場と「通貨浸透説」の失敗を再度証明=ローマ教皇
https://jp.reuters.com/article/pope-encyclical-idJPKBN26Q01L


ロイターのヘッドラインにある「通貨浸透説」とは、ネオリベの言う「トリクルダウン」のことで、お金持ちを儲けさせれば、そのおこぼれが低所得層にまで滴り落ちるという「マクロ経済学的デマ」のことを指します。
日本のネオリベの先駆者である竹中平蔵さんも「トリクルダウンは起こらない」としれっと自説を取り下げているほどですので、決して実現しない都市伝説以下のものだと認識してよい愚かな論理です。
このトリクルダウン仮説に則って8年間も政権を運営し、日本経済を破壊し尽くした安倍さんは一体何だったのかと思います。


MMT派でイギリス労働党元党首コービンの経済顧問のリチャード・マーフィー教授も、この教皇発言の、特に段落168と169を指して、「ラディカルでパワフル」だとして取り扱っていました。

私もこの非常に長い原文をざっと読みましたが、確かにマーフィー教授の言う168段目が特に素晴らしかった。

でもそれ以外のところでも、金融資本・グローバリストによる無茶な市場開放やネオリベ政策、また、彼らの推し進めた略奪型資本主義が「人間を搾取、廃棄、殺す」のだと痛烈に批判している部分や、MMT的な経済政策に通じる部分なども多く見つけることができました。

おそらく、ランダル・レイ教授の著書「MMT」を読んでいるのではないかというくらい雇用に関する知識はしっかりしています。

教皇は、もちろん経済学の専門家ではないので、冒頭部(段落9)で「徹底的な学術的分析ではなく普遍的な友愛思想のもと発言する」と注釈を加えている通りですが、それでも、非常に幅広い知識と鋭い洞察をともなう、哲学的な演説には感銘を受けます。

ちょうど私も個人的に、米国のイスラム教徒の経済観や、彼らが発する銀行家支配論をレトロスペクティブする作業にハマっていたところで、宗教家による発言にも注目していたので、今回のローマ教皇の発言を非常に重視し、部分的に翻訳することにした次第です。

ただ、全部を訳すのは大変なので、私はマクロ経済と銀行家支配論に関わる部分だけを抜粋、翻訳してみたいと思います。
(*例によって私の英語力に限界があるため、間違いがあるかもしれません。全文翻訳はカソリック教徒のサイトの人がそのうちやってくれるでしょう)

ソースはこちらです。

▼ ENCYCLICAL LETTER: FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP
http://www.vatican.va/content/francesco/en/encyclicals/documents/papa-francesco_20201003_enciclica-fratelli-tutti.html

* 以下の[ ]内の数字は、原文の脚注を確認ください。
  また、太字は私cargoによるものです。

 

+++++++++++++


12段落目:
「世界への国の開放」という表現は、経済・金融セクターが共同で採用してきたものです。
それが今では、外国の利益に対する開放性や、経済大国が世界中の国で経済的障害や複雑化を伴うことなく投資できる自由を強調するために用いられています。
地域的な紛糾事案や公共の利益は軽視され、グローバル経済により単一の文化モデルを押し付けるために悪用されています。
この単一文化は世界を統一するでしょうが、「社会がグローバル化するにつれて、私たちは隣人にはなりえるが、兄弟にはなりえない」という結果を残し、人々と国家を分断するでしょう。[9]
個人の利益促進を優先し、国民生活の共同体的側面を弱めるかたちで、ますます複雑化する世界において、私たちはかつてないほど孤立しています。

実際に、個人が単なる消費者や傍観者の立場になるような市場もあります。
一般的に、この種のグローバリズムの進展は、自分自身を守ることのできる強力な地域のアイデンティティは強化しますが、一方で貧しい地域のアイデンティティは弱める傾向があり、それらの貧困地域をより脆弱で依存的にしていきます。
このようにして、「分断統治」の原則の下で活動する多国籍の経済的権力の前では、人々の政治と生命はますます脆弱になるのです。



14段落目:
これらは文化的植民地化政策の新しい形態です。
「自分達の伝統を放棄し、他人(経済的強国)を模倣し、暴力を助長し、許しがたい怠慢や無関心から、他人に魂を奪われ、精神的なアイデンティティだけでなく道徳的な一貫性を失い、最終的には知的、経済的、政治的な独立性を失う人々」を生み出すことを忘れてはなりません。
[11]
各国独自の歴史認識、批判的思考、正義のための闘争、そしてそれらの統合プロセスを弱体化させる効果的な方法は、彼らの偉大な言葉を空虚なものに変えてしまうか、それらを(虚言によって)操作することです。
今日、民主主義や自由、そして正義や団結のような特定の言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか?
それらは、あらゆる(無法な)行動を正当化するために使用できる無意味なタグとして、支配のためのツールとして機能するように捻じ曲げられていないでしょうか。


15段落目:
人々を支配するための最良の方法は、ある特定の価値観を守るふりをしながら、絶望と落胆を広めることです。
今日、多くの国で、誇張の手法や過激主義、二極化が政治的ツールになっています。
嘲笑、疑惑、執拗な批判という戦略を駆使し、他人の存在価値や意見を述べたりする権利を否定します。
彼らの真実と価値観の共有は拒絶され、その結果、社会生活は貧しくなり、権力者の傲慢にさらされるのです。
人々の政治的生活はもはや、生活を改善し、公益を促進するための長期計画についての健全な議論とは関係がなくなり、主に他人の信用を傷つけることを目的とした巧妙なマーケティング手法のみに終始します。
このような激しい非難と反論の応酬の中で、議論は不和と対立の永続的な状態に変質するのです。


21段落目:
いくつかの経済的ルールは経済成長に効果的であることが証明されていますが、総合的な人類の発展には効果的ではありません。[16]
全体の富や資産は増大しましたが、経済的不平等も進み、「新たな形の貧困が出現する」状況になりました。[17]
現代の世界が貧困を削減したという主張は、現在の現実に対応しない過去の基準で貧困を測定することによってなされています。
たとえば、電気エネルギーへのアクセスの欠如が貧困の兆候とは見なされず、困窮の原因とされなかった時代もあります。
貧困は、それぞれの具体的な歴史的期間における利用可能な機会という文脈で常に理解され、測定されなければなりません。

22段落目:
実際には、人権はすべての人に対して平等ではないことがしばしば明らかになっています。
権利の尊重は、「国の社会的および経済的発展の前提条件です。人間の尊厳が尊重され、その権利が認められ保証されると、創造性と相互依存というかたちで発展し、人間の個性と創造性は、公益を促進する行動を通じて解放されます。」[18]
しかし、現代社会を注意深く観察すると、70年前に厳かに宣言されたすべての人間の平等な尊厳が、あらゆる状況において真に認識され、尊重され、保護され、促進されているかどうかを疑問視するような矛盾が数多く見られます。

今日の世界では、還元的な人類学的ビジョンと、人間を搾取し、廃棄し、殺すことさえためらわない利益に基づく経済モデルによって、多くの形の不正が存続しています。

一部の人間は贅沢に暮らしているが、他の人たちは尊厳が否定され、軽蔑され、踏みにじられ、基本的人権が放棄、侵害されていると考えています。[19]
このことは、生来な人間の尊厳に基づく権利の平等について、私たちに何を教えてくれるのでしょうか?


33段落目:
世界は、技術の進歩のおかげで「人件費」の削減を目指す経済に向かって容赦なく動いていました。
市場の自由はすべてを安全に保つのに十分であると私たちに信じさせた人々がいましたが、しかし、この制御不能なパンデミックの残忍で予期せぬ打撃により、私たちは少数の利益のためではなく、すべての人のために、人間に対する関心を取り戻すことを余儀なくされました。

34段落目:
今や、世界自体が反逆の声を上げています。(中略)


37段落目:
ある種のポピュリストの政治体制や、ある種のリベラルな経済的アプローチは、移民の流入はいかなる犠牲を払っても阻止されるべきだと主張しています。
また、貧困国が窮地に陥り、緊縮財政を余儀なくされるよう、援助を限定することの是非も議論されています。
抽象的で支持が難しいそのような声明の背後に、多くの命が危機に瀕していることに気付くことはできません。


52段落目:
自尊心を破壊することは、他人を支配する簡単な方法です。
私たちの世界を画一化しようとする動きの背景には、メディアやネットワークを通じてエリートに奉仕するこの新しい文化を創造しようとしながら、このような砕かれた自尊心を利用する「強力な利害関係」が隠れています。
この動きは、金融投機家や略奪者の経済的な日和見主義に繋がり、貧しい人々は常に敗者に陥れられるのです。

また、国民の文化を無視することは、多くの政治指導者に、持続可能で効果的な開発計画を策定することを不可能にさせています。


54段落目:
無視できない暗雲にもかかわらず、私は次のページで多くの新しい希望の道を取り上げて議論したいと思います。
神は私たちの家族の中に善の種をたくさん蒔き続けておられるからです。
最近のパンデミックにより、私たちは、恐怖の真っ只中で、命を懸けて対応した私たちの周りのすべての人々をもう一度認識し、感謝することができました。
私たちは、私たちの人生が、この歴史の決定的な出来事に勇敢に立ち向かう一般の人々によって、形作られ、支えられていることに気づき始めました。
医師、看護師、薬剤師、商店主やスーパーマーケットの従業員、清掃員、管理人、運送業者など、エッセンシャル・サービスや公共の安全を提供するために働く男性や女性、ボランティア、司祭、宗教...、彼らなくしては、誰も一人では救われないことを理解させてくれました。[51]


100段落目:
私は全体主義や、抽象的な普遍主義について言及しているわけではありません。
少数のグループによって、画一化・支配・略奪のための理想手段として計画されているものについてです。
事実、グローバリゼーションのモデルの1つが「意識的に一元的な統一を目指し、その表面的な統一化を追求する中で、あらゆる違いや伝統を排除しようとする...グローバリゼーションがすべての人を均一化・画一化するのなら、グローバリゼーションは、一人一人の豊かな才能と個性を破壊する」とされています。[78]
この偽りの普遍主義は、世界からその多様な色彩、美しさ、そして究極的には人間性を奪うことになります。
「未来はモノクロではありません。つまり、勇気があれば、一人一人の求める多様性のすべてについて向き合うことができます。私たち人類のファミリーは、まったく同じになる必要なしに、調和と平和の中で一緒に暮らすことを学ぶことができます」[79]


110段落目:
実際、「現実の状況では多くの人々が経済的自由を手に入れることができず、雇用の可能性が減り続ける一方で、経済的自由を主張することは、ダブルスピークを行うことである」。[83]
自由、民主主義、友愛といった言葉自体は無意味であることが証明されています。
なぜなら、「私たちの経済・社会システムが、一人の人も犠牲者となり、阻害されることさえもなくなって初めて、私たちは普遍的な友愛の祝祭を祝うことができる」というのが事実だからでです。[84]


116段落目:
(前略)「連帯」とは、共同体の観点から考えて行動することを意味し、貧困、不平等、労働、土地と住宅の不足、社会的・労働的権利の否定の構造的原因と戦うことを意味します。
それは、お金の帝国の破壊的な影響に直面することを意味し、そのような最も深い意味で理解される「連帯」とは、歴史を作る方法であり、これは大衆運動こそが実現していることとなります。[90]


122段落目:
開発とは、少数の富の蓄積を目指すものではなく、「人権、つまり個人的及び社会的、経済的及び政治的権利 (国家及び人民の権利を含む)」を確保するものでなければなりません。[99] 
企業や市場の自由を解放する権利は、人々の権利や貧しい人々の尊厳、さらに言えば自然環境を尊重することや、人々の利益のためにそれを管理することなどにに取って代わることはできません。[100]


126段落目:
個人同士や小グループ同士の助け合いだけでは、世界の深刻な問題を解決する道はありません。
「不平等は個人だけでなく国全体に影響を及ぼし、それが私たちに国際関係の倫理を考慮することを強いる」ということも忘れてはなりません。[105]
実際、正義には個人の権利だけでなく、社会的権利や他の人々の権利も認め、尊重することが必要です。[106]
これは、「生存と進歩に対する人々の基本的権利」を確保する方法を見いだすことを意味しますが、[107] 外国に対する債務によって生み出される圧力によって厳しく制限されることもあります。
多くの場合、この債務の返済は国内の開発の促進を失敗させるだけでなく、開発を深刻に制限し、条件づけしています。
全ての合法的にな債務は返済されなければならないという原則は尊重しなければなりませんが、多くの貧困国にとっての債務履行の方法が、その国の存在と成長を損なうことがあってはならないはずです。

127段落目:
勿論、これらには代替となる考え方を必要とします。
この試みを聞くつもりががなければ、私がここで言っていることはひどく非現実的に聞こえるでしょう。
しかし一方で、人間としての尊厳には不可侵な権利があるという大きな原則を受け入れるならば、新しい人間性の創造に挑戦することができるでしょう。
私たちは、すべての人に土地、住宅、仕事を提供する世界を目指すことができます。
これは真の平和への道であって、外部からの脅威に直面して恐怖と不信を植え付けるような無意味で近視眼的な戦略ではありません。
真の永続的な平和は、「人類全体の相互依存と責任の共有によって形作られる、未来への奉仕における連帯と協力の世界的倫理に基づいて」のみ可能です。[108]


138段落目:
世界がグローバリゼーションによって相互接続された今日、明白になった事実があります。
私たちは「すべての人々の発展させ連帯するために国際協力を増やし、方向付けすることができる」ということを司法や政治、経済の世界的な秩序の場で達成する必要があります。[120] 
「貧困国への開発援助」は「すべての人に富をもたらすこと」を意味するので、最終的には全世界に利益をもたらすでしょう。[121]
統合的開発の観点からは、「貧困国が意思決定の共有において効果的な発言権を持つこと」 [122] と、「貧困と低成長に苦しむ国々が国際市場へのアクセスを容易にする」 能力が前提されます。


153段落目:
自己防衛や恐れ、不信の気持ちから隣人や隣国を敵とみなすような孤立から利益を得て、それぞれの国が分断されることを好む強力な国家と大企業が存在します。
一方で、小国や貧困国は、地域の隣国と協定を結ぶこともできます。
それにより、近隣諸国がブロック圏として交渉することが可能となり、大国により分断され、孤立し、大国に依存することを避けることができるでしょう。
今日、いかなる国家も、孤立したままでは、国民の共同の利益を確保することはできないのです。


155段落目:
弱者に対する配慮の欠如は、それを扇動的に利用し搾取するポピュリズムや、強者の経済的利益にかなう自由主義の背後に隠れることができます。
どちらの場合も、最も弱い立場にある人々を含め、すべての人々が受け入れられる余地を残し、異なる文化を尊重する開かれた世界を想像することは難しくなります。
(*訳者注: この場合のポピュリズムは、人々の利益のためではなく、狭量なイデオロギーに根差した不健全なポピュリズムのこと)


162段落目:
最大の問題は雇用です。
真の意味で 「ポピュラーな(人気のある)」ものとは、人々の利益を促進するために、神が私たち一人ひとりに植えた種、すなわち私たちの才能、独創力、そして生来のリソースを育む機会をすべての人に提供することです。
これは私たちが貧しい人々に与えることができる最高の援助であり、尊厳ある生活への最良の道です。
私は、「経済的に貧しい人々を助けることは、差し迫った必要性に直面したときの暫定的な解決策でなければならない。より広い目的は、常に仕事を通して彼らに尊厳のある生活をさせることであるべきです」と主張します。
[136] 
生産システムは変化する可能性があるため、政治システムは、誰もが自らの才能と努力を発揮できる機会を持てるように、社会を構成するよう働き続けなければなりません。
真に発展した社会では、雇用は社会生活の本質的な側面です。
「尊厳ある雇用を奪うことほどひどい貧困はありません」[137] 
なぜなら、仕事は毎日のパンを稼ぐ手段であるだけでなく、個人の成長、健全な関係の構築、自己表現、そして交流の手段でもあるからです。
仕事は私たちに、世界の発展、そして最終的には人間としての人生に対する責任を共有する感覚を与えてくれます。

163段落目:
「人々」という概念は、必然的に共同体と文化的な絆に対する肯定的な見方を伴うものですが、社会を単に共存する利益の総和とみなす個人主義的なリベラルのアプローチによって、通常は否定されます。
彼らは、自由の尊重については語りますが、共有された物語に根差していないのです。
社会の中で最も弱い立場にある人々の権利を擁護する人々は、特定の状況ではポピュリストとして批判される傾向さえあります。

人々という概念は抽象的な概念であり、実際には存在しないものと考えられていますが、しかし、これは不必要な二分法を作るためのものです。
「人々」の概念も「隣人」の概念も、社会組織や科学、市民機関が拒絶されたり軽蔑されたりするような方法で、純粋に抽象的でロマンチックなものであると見なすことはできません。[138]


167段落目:
教育と人材育成、他者への関心、国民生活と宗教的成長の分野で十分に統合された見方において、すべては人間関係の質を高め、経済や技術や政治が道を外れることや、メディアの不公正な権力の行使などに社会自身が対処できるようにするために不可欠です。
一部のリベラル派のアプローチは、決まった秩序に従うことで、明るい未来を保証し、あらゆる問題を解決することのできる世界を思い描いていますが、これらの人間の弱さという要素を無視しています。

168段落目:
どんなに私たちが新自由主義信仰の教義を信じるように求められても、市場は市場自身ですべての問題を解決することはできません。
課題が何であれ、この貧相な学問は何度も反復され、常に同じレシピを提供します。
新自由主義は、社会問題の唯一の解決策として、「波及効果」や「トリクルダウン」という魔法の理論に頼ることで、その考え方を単純に再現します。
この「波及効果」が、社会構造を脅かす新たな形の暴力を生み出す不平等の問題を解決しない事実は、ほとんど認識されていません。
雇用を削るのではなく、常に雇用を創出し、「生産的な多様性とビジネスの創造性を支える経済」を促進する積極的な経済政策を持つことが不可欠です。
[140]
目先の利益を上げることを目的とした金融投機は、大混乱をもたらし続けるだけです。
確かに、「内部的な連帯と相互信頼がなければ、市場はその適切な経済的機能を果たすことはできませんが、しかし今ではこの信頼は消滅」しています。
[141]
経済は新自由主義が予見した通りにはならず、この経済理論の独断的な公式が、絶対的ではないことが証明されたのです。
パンデミックに直面する現在の世界の経済システムの脆弱性は、市場の自由化によって解決できるわけではないことを示しました。
これは、財政の制約を受けることのない健全な政治と国民生活の回復に加え、「私たちが人間の尊厳を中心に据え、その柱の上に我々が必要とする代替的な社会構造を構築」しなければならないことも示しているのです。
[142]

169段落目:
例えば、一部の閉鎖的でモノクロームの経済的アプローチには、失業者や臨時・非正規労働者、または既存の構造の中に居場所を見つけることができない多くの労働者を団結させる、大衆(Popular)運動のための場所が存在しないように見えます。
しかし、こうした運動は、さまざまな形の国民経済や地域社会の生産を主導しています。
必要なのは、社会的、政治的、経済的な関与であり、また、「阻害された人々から生まれる道徳的エネルギーの急流によって、共通の運命を築くために、大衆(Popular)運動が、地方や国、国際的な統治機構を活性化することができる」モデルです。
そしてまた、このような連帯の経験は、「下から、つまりこの惑星の下層土から育まれ、一緒になり、調和し、互いに話し合い続けることができる」ことが見出せます。[143] 
しかし、これは「変化の種を蒔く者、何百万もの行動を伴うプロセスの推進者、大小さまざまな、詩の中の言葉のように創造的に絡み合ったもの」としての彼らの独特の行動様式を裏切らない形で行われなければなりません。[144]
その意味で、このような運動は、独自の方法で働き、提案し、促進し、解放する「社会的詩人」です。
これらは、「この社会的政策は、貧しい人々のための政策であるが、貧しい人々の政策ではなく、貧しい人々との政策でもない、ましてや人々を再び連帯させるプロジェクトの一部ではないという考え」を超えた、総合的な人間開発を可能にするのに役立ちます。[145] 
それらは厄介かもしれず、特定の「理論家」はそれらを分類することが難しいと感じるかもしれませんが、私達はそれを認める勇気を持たなければなりません。
「『民主主義』は衰退し、単なる言葉として形骸化される。その代表的な性格を失い、尊厳のための闘争の日々以来、彼らの未来の構築において、人々を置き去りにするために、肉体から切り離されるようになる」[146]

170段落目:
私はもう一度「2007-08年の金融危機は、新しい経済を発展させ、倫理的原則にもっと注意を払い、投機的な金融慣行や実質的に富を規制することになる新しい方法を提供した。しかし、実際の危機への対応は、世界を支配し続けている時代遅れの基準を再考することは含まれていなかった」という事実を考察したいと思います。[147] 
実際に、金融危機の後に世界的に展開された政策は、無傷で逃亡する方法を見つけた真の権力者のために、個人主義の拡大、連帯の縮小、そして自由主義の拡張を後押ししたように見えるのです。


172段落目:
21世紀は、「主に、国境を越えた経済および金融部門が政治を支配する傾向があるため、国民国家の力の弱体化を目の当たりにしている。このような状況を考えると、各国政府間の合意によって公正に任命され、制裁を課す権限を与えられた機能を備えた、より強力でより効率的に組織化された国際機関を考案することが不可欠である」。[149]
法律によって規制されるある種の世界的権威の可能性について語るとき、 [150] 必ずしも個人的権威について考える必要はありません。それでも、そのような権威は、少なくとも、世界共通の利益、飢餓と貧困の撲滅、基本的人権の確実な擁護を提供する力を備えた、より効果的な世界組織を促進するべきです。

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いかがでしたでしょうか?
私が特に好きなのは、12段落目、162段落目、168段落目、170段落目です。

教皇がこんなに具体的に、(ケインジアンやMMTer、反緊縮派的な視点をもって)、敵が誰であるのか認識し、指摘し、またその彼らを批判し、解決策まで示唆するとは驚きでしかありません。
我々反緊縮派も「錦の御旗」を得た気持ちになるでしょう。

全てのカソリック教徒が、教皇のこのメッセージを正しく受け取ってくれることを願います。


余談ですが、ロイター記事の日本語版にはなかった記述が、英語版のほうにはありました。

一部の超伝統主義のカトリック教徒には、フランシスコが「ONE WORLD政府」の陰謀をひそかに支援しているとして非難している人もいます。

今回の教皇の発言を読む限り、この陰謀論者の心配には及ばないだろうと思います。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

cargo
GOKU