クラウド・アトラス観てから、ちょっと気になった三冊の本を読み返したので、備忘録の意味も含めてまとめました。

たぶんウォシャウスキーもこの辺読んでるのかもしれないと思うんだけど、
クラウド・アトラスを理解するためのきっかけになれば、とも思います。

クラウド・アトラスの内包する「イルミ論」的なメッセージは、ぼくが最近けっこう発している案件になるので、この辺に関しての説明は、今回はしない。
今回は、クラウド・アトラスのもう一方のメッセージである「量子論的実在論」みたいなものに焦点を絞って考察することにしました。

で、一冊目。


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■①「クォンタム・セルフ ~意識の量子物理学」by ダナー・ゾーハー

この本は、形而上学的な"実存"と、"つながり"を構造主義の延長上で量子物理学の視点から解いた作品です。
汎神論的な考え方に近いのかもしれません。

かなりマニアックな本で、たぶん絶版なので、けっこうなサブカルマニアじゃないと知らないと思いますが、本当に大好きな本です。

理論物理学の専門家に言わせると"トンデモ"と片付けられそうですが。


以下は引用。


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画像はこちらから http://retz.seesaa.net/article/113419329.html

p8
物質のエネルギーの不断の等価的変換、波動 - 粒子二重性の示唆する流動性、ウィルソン霧箱の中の飛跡に見た粒子の突然の誕生と死、ハイゼンベルグの不確定性原理の示す手を伸ばせば逃げ出してしまう実在のとらえどころのなさなどは、すべて私の想像力をかきたてる一種の興奮剤として作用し、「宇宙は生きている」といういわば幾分神秘的な感じを持つようになりました。

p9
私の夫とクリシュナムルティ(Krishnamurti)が「私が世界だ」と喝破して、すべての事物に相互関係あることを語ったのを思い出した。
原子以下のレベルでの実在や実に奇妙な電子の振る舞いについての量子物理学の説明から、私はいくつかのよくある哲学的問題に対する新しい見通しを持っています。。
それらの問題とは個々人のアイデンティティ(私の中のどれだけのものが実際に「私」であるか、「私」とはどれだけのものであるべきと考えるべきなのか)、精神 - 身体問題(私の意識的な精神つまり「魂」は、私の物質としても体やそのほかの物質とどういう関係があるのか)、自由意志対決定論の問題、意味の問題などです。

p25
量子物理学による物質の性質、たぶん物質そのものについてのもっとも革命的で私たちの目的にとってもっとも重要な所説は、量子物理学に言う波動 - 粒子二重性(Wave particlly duality)から生まれるものである。
すなわち原子以下にあるすべての存在は、微小なビリヤードのボールのように固体の粒子としても、また海面のうねりのように波動としても、等しく具合よく説明できるという主張である。
量子物理学は、この説明の両者いづれもが、一方だけでは真に正確ではなく、事物の性質を理解しようとする場合、波動状でも粒子状でもある存在の姿を基にして考えねばならず、もっとも基本的なのはこの二重性そのものだ、と言うのである。
量子の中身は本質的に、同時的に波動状でありまた粒子状なのである。

p71
ある種のの組織的汎心論はソクラテス以前の時代からずっとあった。
パルメニデスの唯一存在あるいはヘラクレイトスの聖なる流転は、意識あるものも物質的なものも全てのものが窮極的には一つの共通の源から発しているということを暗示している。
「神とは、昼と夜、冬と夏、戦争と平和、飽食と機がである。しかし、神は、ちょうど火が薬味と混ざるとき、それぞれの風味によって名がつくように、さまざまな姿をとる。....人々には相違するものがどのように一致するのかわからないのだ」

p74
私たち意識を持つ存在を形成する無生物は変化し続ける。
人間の場合には七年ごとに全面的に変わってしまう。(細胞の循環によって)
今私の肉体の形成に加わっているただ一個の原子でさえ、七年後には私の中にはいない。
私たちの生きている肉体は、他の肉体と、また私たちの周囲の無生物と、耐えざるダイナミックな交換を行っている。
そうなると、どのようにして同一の原子がその歴史のある時点で意識的構造の一部となり、他の時点で無生物の一部となることができるのであろうか。

p113
ボース=アインシュタイン凝縮体の決定的に際立った特徴は、秩序あるシステムを構成する多くの部分が全て一体となって振舞うのみでなく、全てが一体となる - それらの個性がまったく消えてしまうように、それらの固有性が溶け合いあるいは重なり合ってしまう - ということである。

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画像はこちらから http://patent.astamuse.com/ja/published/JP/No/2011106837

p140
プラトンが「テマイオス」の中で述べたところによれば、『二つのものだけで他にもう一つなければ、十分に結びつくことはできない。
というのはそれら二つのものを結びつけるなんらかの絆が二つの間になければならないからである。
そして全ての絆のうちで最も優れたものは、そのものとそれぞれが項とを完全に一体化するものである』

p143
意識が一種の量子的関係だという見解から、また意識は多くの汎神論者が主張しているように、いかなる意味でも物質の一特性ではありえないということになる。
意識は本質的に二つあるいはさらに多くの粒子の関係であるゆえ、意識を物質の一個の素粒子の在り方まで遡ることはできない。
意識は、本質的に関係 - 的であり、それで少なくとも二つのものが一緒になるところでのみ生ずることができる。
「タンゴを踊るには二人要る」のである。

p163
量子的自己すなわち私たちが私たち自身だと考える「私」は十分現実のものであるが、それは一瞬ごとに境界が不明瞭で変動する移ろいやすいものである。
私たちはそのダイナミックスについて知ることはできるが、素粒子の位置と運動量を共に固定するのができないのと同様に、「私」を固定することはできない。

p193
私と他者との関係は、さまざまな面で、私と自己にある下位自己との関係の拡張にすぎないように見え、私と他者との間、私と非-私との間の永続的な境界線はあまり意味深いものではないのではないかと思われる。
「私」がどこで終わり「あなた」がどこから始まるかをはっきりと言うことはできない。
量子物理学的に言えば、「巨視的なシステムは常にその微視的状態と相互関連していると結論せざるを得ない」

p197
素粒子という原始レベル以下のレベルにおいては、永久的な消滅という意味での死は存在しない。
量子真空(Quantum Vacuum / n場の量子論による真空であり、真空は場のエネルギー最小状態として定義される)は、全ての存在の基礎となっている実在であり、永久的に存在する。
全ての基本的特性 (質量・エネルギー・電化・スピンなど)が保たれていて、何一つ消滅することはない。

p226
多くの精神分析医が彼らの研究の幅を広げ力点を変えるものと思っている実存主義者の関与の強調は、表現は違うものの多くの同じ欠陥を逃れてはいない。
サルトルも初期のハイデガー(『存在と時間』)の場合も、自己と他者の間を繋ぐことができない隔たりによって、個人間の関与に勝手気ままな自己中心的な性質が生まれてくる。
私は、自ら関与しようとするゆえに関与するのであって、他者が、その他者のいうのはナルシシスト的に私の存在を私に反射し返す鏡にすぎないのであるが、いずれにせよ関与を強調するのではない。
その関与に意味と価値を与えるのは私つまり私の選択であり、そのように私の自由を行使することによって得をするのは私なのである。

p270
生体によって想像される秩序は、整頓による秩序ではない。
疲れた主婦が玩具や皿を一日中片付けるのではほとんど創造性を発揮することができないとこぼすのは当然である。
生体の創造性(少なくともそれらの量子凝集に基づくもの)は、「関係的全一体」、すなわち部分を寄せ集めた総体よりも一段と偉大なシステムを生む秩序を創造し、複雑さの臨界レベルに達するときはいつでもこれを自発的に行う生体の能力から生じる。
プリゴジーヌは、それらのシステムを「自己組織的システム」と読んでいる

p271
この生体が自発的に(自由に)秩序ある関係的全一体を形成する能力は、私が思うに、すべての創造性の基盤であり、そしてこの範囲では、創造性は私たちがアメーバやミミズと共有する能力なのである。
しかしこの洞察を意識そのもの、私たちの精神的・心理的・霊的生活の源にまで拡張することによって(私たちは意識を脳内のフレーリッヒ型ボース=アインシュタイン凝縮体と考えることによってそうすることができののだが)、私たちは、創造性のより高次な形態の源、特に人間的であると認め多角評価する形態の源を、理解し始めるのであり、また同様に子供が土の壺を作ったり大人が創造的な課題に対応する時にどういうことが起こっているかをも理解し始めるのである。

p319
生命は、常に、より多くの生命、より多くの、またより大きな秩序ある量子凝集を作り出すように思われる。
そして、これによって、初めて、人間のような意識を持つシステムにある目的性が生まれることは明らかである。
そこには同じ物理過程がある。
そしてこの物理過程を通じて、私たちは、意識を遡り、極めて初歩的な意味で人間が全ての生物と共有するものまで行き着くことができる。
そして秩序ある量子凝集が存在するそれぞれのレベルで、そうした凝集とその物質的環境との間の創造的なやりとりが行われるのである。
それゆえ、私たち意識を持つ人間は、明らかに私たちの意識の性質の幾分かを全ての他の意識を持つ生物と共有している。

p321
光子集束効果に基づきドイツの物理学者フリッツ・ポップは次のように結論している。
「生物システムと非生物システムの間の差異は電子レベルの被占数(Occupation Number)における急激な増加(マグニチュードのオーダーが20倍も大きい)である」
すなわち、生物システムにおいては、光子は極めて多く(指数関数的に増加して)束ねられ、文字通り凝集したボース=アインシュタイン凝縮体へと「ぎゅうぎゅう詰め」になる。
ところが非生物システムにおいては、それほど詰め込まれない。
しかし、この差異は程度における差異であり、原理的な差異ではない。
「自己組織的な開放系」の場合は、エントロピーに支配される系とは異なり、秩序は常に増加するという事実によって、生物システムはそうした開放系であると言える。
しかしその物理過程ははるか遠く無生物の世界にまで広がっているのである。

p330
ユングは、アメリカインディアンのプエブロ族は太陽の息子たちであり、この役割から父なる太陽が空を渡る手助けをする祭りを行うのが毎日の勤めだという彼らの信仰を語っている。
彼らは、この義務を畏怖するべき責務であると感じ、またそれを全世界のために遂行するのだと思っている。
彼らはその父と全ての生命の保護者を日の出、日の入りに際して援助している。

p343
こうした量子的自己は、西欧の個人主義の極度な孤独状態とマルクス主義や東洋の神秘主義の極端な集団主義との間を調停する。
およそ同様に、量子的世界観は、人間文化と自然との間の二分法を克服し、実際、自然の制約を文化的なものの窮極的な成功に課すのである。
文化の世界 - 芸術・観念・価値・道徳律、さらに宗教までも -を生み出す意識の物理過程は、私たちに自然の世界を与える物理過程と同じ物理過程である。
どちらの場合も、環境に対して自由に反応して秩序ある凝集を維持し増加しようとする要求によって働く物理家庭である。
量子的自己は、その意識の機構そのものによって、自然の自己 - 自由で責任のある自己 - であり、そしてその世界は、窮極的には、自然の世界を反映するであろう。

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以上、ちょっとだけ中略と加筆をしましたが、ぼくが感じた「この本の好きな箇所」です。


要するにこの本、何が言いたいかというと、仏教的に言うと、「色即是空、空即是色」は「因縁正起」によってつながる、みたいな。

汎心論的解釈に関しては、ドラゴンボール的に言うと、「元気玉」理論な感じ。


クラウド・アトラスという作品が飛ばした量子を受け取り、ボース=アインシュタイン凝縮体のエネルギー(量子波動関数)を高めmemeとして消化する。
さらにぼくはそれをart作品としてoutputし、量子のつながりを作る。
なんかわかった気がしたわ(笑



クラウド・アトラスを受けて、今ちゃんと読みたい(読み返したい)本が生まれました。

オーウェルの「1984」や、バロウズの「裸のランチ」、またはウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」などのSF、サイバー・パンク系。
ブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙」と、ミチオ・カクの「パラレルユニバース」、フランク・ウィルチェック「物質の全ては光」などの物理学系あたり。




ここ最近、ネットの文章ばっか読んでて、「まとめ脳」になってたので、どっぷり文字の海に浸りたいっすww

あ、あと、もう一回マトリックス・シリーズを観なくては。
たぶん、まだ逃してたサブリミナル・メッセージがあると思うので、コマ送りなどしつつ検証したい(笑

自分の中でテーマが生まれてしまって、もうワクワクしすぎておしっこちびりそうなのでありますww



以上、次回に続く。