プランク定数hと縁起 その1


クリスマスなのに、めんどくさい話でスイマセン。

でも逆にクリスマスだからこそかみさまのことを考えるのにうってつけだな、と思い。。


ということで、この前の続きです。
http://ameblo.jp/cargoofficial/entry-10689114662.html
(ずいぶん時間が経ってしまいましたが、自分の中でまとめるのに時間が必要でした。。)

*以下、物理学の話が中心になるのですが、自分の解釈や説明が間違っていたらゴメンナサイ。
詳しく知ってるひといたら教えてください。



苫米地英人博士が「なぜ、脳は神を創ったか?」のなかで、"神"の存在を否定する理由として挙げられていた例があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%AB%E7%B1%B3%E5%9C%B0%E8%8B%B1%E4%BA%BA

"ハイゼンブルグの不確定性原理"というものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86

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これは1927年に提唱されたブツリガクの有名な論理なんですが、

それ以前とそれ以後では、物理学や数学、自然科学全般、また宗教学やArtなんかの世界においても、それまでの考え方や価値観を一変させ、

時代を変えてしまうくらいのパラダイム転換になったそうです。


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事の起こりは、ハイゼンベルグが、当時最も小さな物質と考えられていた"電子"の位置を測ろうとしたことです。

電子の位置を測定するためには、光を当てるしかありません。光の波長を短くし、電子のサイズより小さなものにすれば、その反射によって位置がわかる

と考えたわけです。

ところが、光の波長を短くすればするほど、そのエネルギーの量は上がっていきます。
そのため、光を当てたとたんに、電子はそのエネルギーによって一瞬のうちにどこかに吹き飛ばされてしまうわけです。

つまり、どこにあるか知ろうとすると、どこにあるかわからない。

これが不確定性原理の発端になりました。




小学校の理科の実験で、ビーカーのお湯の温度を計りなさいと言って、生徒はそこに温度計を入れて「80度です」などと計測する。

しかし、実際には温度計をお湯の中に入れた時点で、お湯の温度が下がり、若干の誤差が生まれてしまう。

お湯の温度を測ったのではなく、温度計を入れた後の温度を計測したにすぎず、温度計を入れる前の温度を測ったわけではないわけです。



すべての計測は、計測結果に必ず影響を与えるというのが、不確定性原理です。


(電子の二重スリットの実験)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E5%AE%9F%E9%A8%93

---------     苫米地英人"なぜ、脳は神を創ったか?"から抜粋


とにかく、簡単に言うとこの世は不確定なものが主体となって構築されているんだ、と考えていいと思うのですが、


苫米地博士いわく、この「"ハイゼンブルグの不確定性原理"により、"神の死"が立証された」といいます。
(正確には、1987年に証明されるゲーデルの不完全性定理との二つを理由に)



「いやいや、そんなこと言ってるけど、またそういう結論ってすぐに新しい論理が発表されることによって覆されるんでしょ?」

と思うかもしれないです。


しかし、現在の物理学では"宇宙にはこれ以上小さい数値はない"とされる"プランク定数"(10の-34乗)の存在を理論上立証するに至っていて、

この不確定性原理は、そのプランク定数においての事例にもあてはまるらしいのです。

それ以上の最小値はないんだから、「宇宙はそのようになっているっぽい」という最終局面にまでさしかかっているみたいなのです。
(ちなみに電子以下のサイズの物質を量子と定義し、その量子のふるまいを考える学問を量子力学と言うみたいです)


(*不確定性原理の方程式  △I×△V > h 
   :位置の分布△Iと運動の分布△Vをかけてもプランク定数hより大きい、つまり位置と運動を同時に知ることはできない)



でも、よく考えてみてください。

これって同時に"ハイゼンブルグの不確定性原理"により、"神の死が立証されなかった"、ということにもなりはしないでしょうか?


だって"不確定"なんだもん、神の存在も不在も確定できない。


神はいるかもしれないし、いないかもしれない、という余地を残しているわけです。

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例えば、アメリカの物理学/宗教学/哲学の研究者ダナー・ゾーハは「クォンタム・セルフ ~意識の量子物理学」の中で、

量子論から仮説を膨らませて以下のようなことを言っていました。


量子論の話でよく出てくる"シュレーディンガーの猫"という思考実験の例をとっての話なんですが、

この実験を簡単に要約すると、猫を密閉されたハコの中に入れて、毒入りのエサを与え続けて、結果どうなるか?というものです。

この実験の結果は、確率的に「必ずネコは死ぬ」ということになるんですが、実際ハコを空けてみてネコの状態を確認するまでは、

本当にネコが死んでいるかどうか確認できない、というパラドックス的な問題が存在することを明らかにしました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB

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彼女いわく、「この次元での実存が不確定とするなら、猫は生きてると同時に死んでる。

我々は経験上、猫が生きている状態と猫が死んでいる状態という二つの状態を認識することができるが、

このような重なりあった状態を同時に立証することはできない。」とのことです。


「"実存する"という認識は観察するときにはじめて生まれる。 

猫は箱を開けたときに死んでいることがわかったのではなく、

箱を開けて見たから死んだのだ。

つまり、観察者の非物質的意識が量子レベルに作用して殺したともいえる」

と言うのです。




また、これも量子論の不確定性原理を説明する上で、よく使われる例である"ド・ブロイ波"の話からもダナー・ゾーハはおもしろいことを言っています




まず、中学の時の理科の授業で習った"原子核の周りを回る電子のモデル"を思い出してください。

たぶん、このモデルを想像する時、ほとんどの人は"太陽とその周りを廻る地球のような姿"を想像するでしょう。

しかし電子の本当の姿は、電子がどこに行こうとするかわからない”即時的非局所性”で成り立っているらしいのです。

この”即時的非局所性”を"ド・ブロイ波"(不確定のごった煮)と言うらしいのですが、

電子は、瞬時にあらゆる場所に存在しうるし、その痕跡を残すということみたいです。

つまりあっちにあると同時にこっちにもある、みたいな。。


この話でも彼女は不確定性原理的な観点で、「観察者の非物質的意識が量子レベルに作用して、観測時の電子の位置が決定されたのではないか」

という結論で締めくくっています。

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確かに、科学的な立証は置いといて、哲学的な意味合いにおいては、この仮定を否定することはできません。


存在と非存在を決定するファクターに、ある種のエネルギー、この場合は観測者の意思といっていいでしょう、が関わってくるというのです。



事物の根幹を成す"量子、素粒子の世界"では、意識という物質の力が作用するのかもしれません。



"存在する、と同時に存在しない"

"存在する"ことにも"存在しない"ことにも意識のエネルギーが作用するようだ。



そんな感じです。



ということで、少々ウザいかもしれませんが、ぼくの疑問はとどまることを知らず、この話は次回も続けようと思いますw


では。