気分障害のうつ病について


精神障害のうち、長期間に渡り、
●悲しみ(負の感情)で過度に
 気持ちがふさぎ込む「うつ病」、
●喜びで過度に気持ちが高揚する「躁病」、
●またはその両方を示す感情的な障害を
気分障害」といいます。

うつ病と躁病は気分障害の両極にある状態で、
気分障害は別名「感情障害」とも呼ばれます。


私見になりますが ...
欧米においては、うつ病を心身両面の疾患と捉えて
判断するのが一般的なのに対し、日本では、1990年代後半頃まで、精神医学界以外で「うつ病」という言葉を耳にすることは皆無で、医療現場においては、主に身体面のアプローチを主に捉え、精神面へのアプローチが低かったため(重要視されていなかった)、うつ病という診断名自体はめったに使われず、「静養が必要なだけ」と医師から言われることが多かったと感じています。


20世紀末近くになり、日本の製薬会社が展開した『うつ病は誰でもかかる可能性があり、薬で治療できる病気で「心の風邪」』とのキャッチコピーによるプロモーション活動が行われ、うつ病を含む気分障害と診断される患者数は僅か約4年間で倍増し、抗うつ剤の市場は2006年までの約8年の間で6倍近い規模に急成長しました。


これまで社会全体に気分障害のうつ病が周知&認知されていなかった原因は、日本の医学界の慣習にあったと感じていますが、こうやって病気が新たに認知され、薬が開発されると、データ上は病気が増えるという妙な数字のマジックが生まれますが、今では社会全体でうつ病はその症例とあわせて認知された病気のひとつになりました。

言葉を変えれば、ある意味、病気は医療の進歩によって創られるものである側面を持つともいえるのかと思います。


正規・非正規の労働問題、自殺率の低減課題、職場でのストレスチェック、高齢化による孤独死問題、いじめ問題からハラスメント対策 etc.
製薬会社のプロモーションの影響が全ての本丸とは言いませんが、社会背景と相まって世の中全体がメンタルケアの重要性に気付き、そのような方向に流れていったことは間違いないように思います。


そのなかでの反作用といえるのでしょうか ... 「頑張る頑張れ」の言葉がスケープゴードのようにされて葬り去られるような様を見続けることにもなりました。






「頑張る」の言葉について




「頑張る」の言葉の語源には諸説ありますが、有力な説は次の2つです。


●「眼張る:
 目を見開いて一点を凝視する様子から、「集中して物事に取り組む」という
 意味に転じたとする説。

●「我を張る:
 自分の意見を強く主張する様子から、「困難に屈せず意志を貫く」という
 意味に転じたとする説。


いずれの説にしても、「強い意志を持って目標を達成しようとする」というニュアンスが根底にあることは共通しています。


江戸時代には、「頑固に自分の意見を主張する」という意味合いが強かった「頑張る」という言葉は、明治時代以降、スポーツや教育の分野で積極的に使われ始め、現代では「目標に向かって努力する」という意味合いが一般的になりました。

このように、「頑張る」という言葉は時代とともに意味合いが変化し、現在では日本人の精神性を象徴する言葉の一つとして広く親しまれてもいる言葉です。

「頑張る」という言葉は、日本語独特の表現であり、それぞれの文化や言語の中で、「目標に向かって努力する」という意味合いを持つ似たような言葉は存在するも世界共通の同義語はありません。

「頑張る」という言葉は、単純な努力を表す言葉ではなく、強い意志を持って目標を達成しようとする、日本人の独特な精神性や文化背景を反映した表現であり、世界各国の言葉と比較することで、その奥深さをより深く理解することができます。




頑張ることを否定する風潮への反論

祈りの言葉としての「頑張れ」



2010年頃から「頑張る」という言葉が必要以上にバッシングされている風潮を感じています。

確かに、「頑張れ」の言葉に過度な努力を強要・強制して人を追い詰めたり、他人と自分を比較して無理・無茶をさせたりするような言葉の使い方には問題がありますし、うつ病を患っている方に対しては、症状悪化の命の危険性につながることも認知され始めたことが背景なのかと察しはします。

しかし、「頑張る」という言葉や行為自体は、決して否定されるべきものではありません。

むしろ、自己成長にとって頑張る行為は必須のことであり、それは困難に立ち向かうための力強いエールの言葉であり、応援の言葉であり、祈りの言葉なのだといえ、強制や命令を伴うものは慎むべきであり、応援や祈りの想いの場合は臆することなく使うべき言葉なのではないかと思います。

もしもそこに精神障害である方がどこにいるか分からないから危険回避として使うべきではないとの理由があるとするなら、他者尊重精神は大賛成ながらも無用な言葉狩りこそが誤った偏向を生み出すのではとの危惧も抱きます。


例えが良くないかも知れませんが、「頑張れ」のバッシングの裏側で、叱咤激励にはあまり非難の矢印が向かっていないように感じます。


「叱咤激励」とは「大声で叱るように励まし、奮い立たせるこ と」ですが、ゾーン一歩手前の限界点近くまできていてあと一歩でそこに手が届くとなった時、叱咤激励として「頑張れ」とエールを送り、祈ることはとても自然な行為ではないかと思うのです。

既に頑張っている人にさらに頑張れというのは追い込んでいるというお話しもよく耳にします。

強制行為なら完全に誤りだと思われますが、ご本人と対象者の関係性や本人の納得感と自己決定権の有無が大きくかかわるのではないでしょうか?


うつ病を発症する危険性を秘めているいじめやハラスメントは、社会全体で強くバッシングされるようになり、メンタル不全に対するケア意識の高まりとともに社会全体が注意喚起を行う流れは好ましい状況だと思っています。

その好ましい流れの裏側で「頑張る・頑張れ」の言葉が使用方法の気遣いが必要な言葉だとするのではなく、言葉そのもの自体が間違えである的な一部の風潮には違和感しか覚えません。






「頑張れ」は強制ではなく、応援である





「頑張れ」という言葉は、時に誤解され、人を追い詰める言葉として使われてしまったように感じるのですが、本来の意味は、決してそのようなものではありません。

「頑張れ」という言葉は、お相手が困難に立ち向かっていることを認め、その努力を応援する言葉であり、お相手を信頼し、その可能性を信じているからこそ発せられる「祈り」にも通じた言葉なのだと思います。

ゆえに他者に対してのみ使う言葉ではなく、自分で自分自身に叱咤激励する際にも「頑張れ」と鼓舞する言葉でもあり、正に祈りであり応援である言葉だと感じます。

バッシングされることがあるとするなら、頑張れの言葉ではなく、何らかの強制を他者にする際に誤った方便として「頑張れ」の言葉を使い、そこに強制力を持たせてしまっている使用方法の誤りにおいてだと言えるのではないでしょうか。



「頑張る」ことは自己成長においてとても大切なことであり、自己肯定感を高める言葉でもあり、困難に立ち向かうための力強いエールであり、応援の言葉であり、祈りの言葉なのです。

不適切で危険さえ伴う強制行為の際に使われる言葉遣いとしては完全に相応しくないモノであり(ここはバッシングの対象)、この悪しき行為には注意喚起を促し排除を行うも、「頑張る・頑張れ」の言葉にはもう一度、正しい息吹を与えて欲しいと願っています。

言葉は文化そのものであり、「頑張る・頑張れ」という言葉の意味を正しく理解し、大切に使っていきたいものだと思います。


PS こんなことは100も承知の上で、頑張る・頑張れの言葉を使わぬとの方を非難するつもりは一切ありません。





余談 ...

兄の壮絶な闘病生活の付き添いの中で、モルヒネも効かぬ状態になり、意識は無いのに断末魔のように襲われる刺激にエクソシストの映画のワンシーンのように、ベッドへの拘束ベルトも引き裂かれるのではないのかと思える程のた打ち回る痛みの身体反応を何も出来ぬままベッドの脇で見続けることになりました。

命と病魔の最後の戦いを見つめる地獄絵図のような時間でしたが、胸の中に響き続けていた言葉は、意識の無い兄に対して「頑張れ」の言葉だけでした。
何度も々も「頑張れ」と言い続けていました。

この世のものとは思えぬ恐ろしい程の戦いが終わり事切れた時、言いようのない哀しみと同時に浮かんだ言葉は「よく頑張ったよ」の言葉でした。










笑顔の行方を見つめて

all written by careerwing  T.Yoshida@ponyo



素敵な笑顔溢れる1日でありますように!