先生と呼ばれる人々

他者に「 求め過ぎ 」て得られるものとは、
叶わぬ理想の現実と深いため息とストレスだけ ...

ちいさな小さな自分自身のことで手一杯で、
他者の「性欲・金銭欲・権力・名声欲 etc.」
などに興味無し ... こちらに負の影響がなければね ...

仕事の実績も微妙で欲塗れでうつつを抜かしてばかりの御仁に一応は言っておくね ...「いい加減にせいよ・ごらぁ!」   注)厚顔無恥な錬金術師の一部の政治家先生を想定か!?


訴訟で一度も負けたことがない敏腕弁護士と真面目で正義感の強い新米弁護士の2人がコメディタッチで繰り広げる、堺雅人さん主演の法廷ドラマ「リーガルハイ」にこんなセリフがありました。


世の中に「先生」と呼ばれる職業は幾つかある。
教師、医者、君たち弁護士、そして政治家だ。

なぜ人はわれわれを「先生」と呼ぶんだろう?

人はね、何かをしてもらう相手に対して「先生」と言ってへりくだるんだ。
教師には教えてもらう。医者には治してもらう。 弁護士には助けてもらう ...




世の中で先生と呼ばれる職業の人達は...

 政治家・議員
 教 師・講師・教授(保育園・各学校・塾・職員)
 医 師・薬剤師・カウンセラー
 芸術家(小説家・漫画家・画家・作詞家・
     作曲家・作家)
 弁護士・税理士などの士業
 占い師・宗教関係の偉い人・一部のタレント etc. etc. etc.


物の書によれば、先生の言葉の原義は、「自分より先に生まれた人(年長者)」となるも、他にも以下の意味があるようです。

 ① 学問や技術・芸能を教える人。また、自分が教えを受けている人。師。師匠
 ② 学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語
 ③ 親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと
 ④ 自分より先に生まれた人。年長者 (原義)

... 人は、ある事柄を専門的に教えて貰ったり、助けて貰うためや、その才能や実績などに敬意を払うため、己をへりくだり相手を持ち上げて「先生」と呼びますが ...


余談を付け加えるならば ...

先生と呼ばれる方は、仕事の実績と人物的に尊敬に値する僅かな人と、職業特性であることの背景を勘違いし、己を人類上の上級者とでも思っているのか、他者を見下すような人間性において軽蔑を感ずる人が少なくないと感じています(100%私見&愚見)

ゆえに個人的には、医者・弁護士を筆頭に「先生」と呼ばれる方々を好きにはなり難く & 友達にはなり難い人達だと感じています(101%本音&私見)

「先生」と呼ばれる職業に就いていることは素直に立派なことだと思うのですが、得てしてそれに伴い期待される人間性において欠けるものが少なくなく、名実のギャップの開きが大きい特徴を持つ人々とも言い換えることが出来るでしょうか ...

あくまでも不出来者ゆえの戯言で、超個人的にはそう感じているというだけのことですが、先生と呼ばれ、先生を身にまとってる人と向き合う時には、獣の本能を研ぎ澄まして注意を払って対峙をしてもいます(300%私見&本能) ...


注)先生と呼ばれる方のなかには名実ともに尊敬に値する方もいらっしゃるだろうとは思いますが、不出来者ゆえにそのような方にお会いする機会に恵まれずに今日に至るため、斯様な私見を抱いてしまうのかも知れません事を附記します。



求めることのバランス


先生についてのこんな言葉があります。

先生と言われる程の馬鹿でなし

この意味は、「先生」と呼ぶからといって、
必ずしも敬意が込められている訳ではなく、
むしろ愚かさ・滑稽さ等々に対してばかにすることも多いことから、
先生と呼ばれていい気になっている者を軽蔑して言うことわざになります。

人をやたらと先生呼ばわりする世の中の風潮に対する一過言や、先生などと呼ばれて得意になっている人への批判も込められてもいますが ... 「馬鹿で無し」のフレーズは、「ろくでなし」と置き換えられるような・それは言い過ぎのような ...



個人的には、「〇〇先生」と個人名を付けて呼ばれる方には心を開き、「先生」とだけ呼ばれている方には獣の本能の要注意センサーを全開にするようにしています。

これまた超個人的には、権力者に対する批判・反骨精神のアンチテーゼ姿勢がいつの頃からか身に付いてしまい、先生と名の付く方に対しては、前提として、人としての尊敬の念を感じられる人物であることを求めてしまっているのが強いのかも知れませんが ...



た・と・え・ば

多くの国民が尊敬する政治家とは誰になるのでしょうか?

そもそも尊敬に値する候補者の名前はあがるのでしょうか?




インターネット社会でSNSが台頭し、多くの情報に触れることが可能となり、社会的に個人見解を発信することもしやすい世の中となりました。

マスコミの情報の信頼度&価値観の変化・炎上&粘着行為・匿名によるバッシング行為・デジタルタトゥー・Web私設警察 etc.

インターネット社会を背景にした社会現象としての功罪は様々にあると思いますが、先生と呼ばれる方々に対する動きを眺めていて自他共に感じることがあります。


それは ...

先生に ... 聖人君子を求め過ぎていないか

 といった過剰欲求についてなのでした。
 

     過剰欲求過剰期待


世の中の多くは、仕事としての実績のみに着目して「先生」としての業務遂行能力で是非を問うことは少なく、先生と呼ばれる方々のハラスメント・金銭問題・性的問題 etc. といった剥き出しの我欲に対して着目し、職業(役割)倫理における人間性を問われて糾弾・失脚することの多さを省みるなら、そしてそれが過去から何度も々も同じことで繰り返されることを思うなら、世間が先生と呼ばれる方々への過剰期待&過剰欲求により、聖人君子としての理想論・像を求め過ぎている状況に陥ってはないのだろうかと思えてしまうのです。




職業倫理上の期待値を上回る人間性があって
役割としての業務遂行能力発揮が出来るものなのか?



人間性は見劣ったとしても
期待発揮が求められる以上の成果実績を残すならば良しなのか?




先生と呼ばれる人達が、人として社会の規範となるべき(キャリアモデルとしてのお手本的な生き様)といった社会風潮が過去には色濃くあったように思うのですが、心から尊敬できる先生の有無の実態を踏まえるなら、先生に対する評価は、先生たる者とは何ぞやとの原点に立ち返り、成果なのか人間性なのか、はたまた両者のバランスなのか、改めて現在の社会的コンセンサスが必要なのではないかと思うのです。


ずっと繰り返される哀しい他人の痴態の姿を見続け、当事者ではない我々自身が、これまでのフェイズ・常識を変化させる状況にあるのではないのかと思うのでした。

それでも理想論としての先生像は追い求めてしまうものではあると思うのですが、この世に聖人君子を探し求めるのは至難の業である現実を踏まえ、実績主義評価へと先生の定義を見つめ直すことが出来ると、もう少しだけこの殺伐とした世の中の温度が変わるのではないかと思う今日この頃なのです ...


とはいっても他者の獣たる姿など微塵も興味もないので、聖人君子たる姿を求めはしないし、先生と呼ぶのは名前を覚えられないためであり、きっちりと仕事の成果を出すならとやかくは言わないので、他人様に迷惑を掛けず自分の恥部は墓場まで黙って静かに持っていってくれよと思ってしまうのは不出来が過ぎますでしょうか?

踊るならうまく踊るから、上手く踊らせてくれよ
と先生に望んでしまうのは儚過ぎる望みなのでしょうか ...
それさえ出来ぬだろう御仁が先生と呼ばれ、公人としての姿を持つ方もいて、
先生と呼ばれる覚悟はお持ちですか?」と日々尋ねてみたくなるのでした。



聖人君子などいないのだから


今昔の人々の姿を想う時、
昔の人達の方が、先生と呼ばれる人に相応しい
人になろうとする自分磨きの姿
を感じました。

とはいえ結果が全てだとは思わぬ自分もいます ...

世の中・不特定多数の先生に聖人君子となれとは求めませんが、それに近づこうとする志と姿を持って欲しい・我欲の獲得に奔走するのではない人間力磨きにも注力して欲しいとの内なる願望を抱きます。


心の底から先生と呼べる人との出会い・存在は貴重なものだと思います。

聖人君子は素晴らしいことではあっても、友として付き合う人とは思えずでもあり、
「人間力を磨きながら聖人君子たる姿をも垣間見れる人が好き ... 」などと言ってみるのでした ...




人の本性たる哀しき獣の性

求め過ぎて得られるものとは、

叶わぬ理想の現実と深いため息とストレスだけ



それでも理想を捨ててはならず、

自分の正義を自分自身で問い掛ける必要性があり、

それこそが人間力を磨き、聖人君子へと向かう絶対条件のひとつ ...



しっかり愛して しっかり愛される



これに尽きるのでしょうか ... 頑張だオラ(意味フ)!





先生と呼ばれる覚悟も持たず、責任の取り方さえ知らぬと思われる
不届き者メッ!な「先生」たちに心からこの曲を贈ります!

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笑顔の行方を見つめて

all written by careerwing  T.Yoshida@ponyo



素敵な笑顔溢れる1日でありますように!