人生の最後と最期


さいご」という同じ読み方の言葉ながら

  「 最後 」は ... 物事の終わり
  「 最期 」は ... 命の終わり

を表しており、一文字違うだけで、
その意味合いは大きく変わってしまいます。

幾千年もの歴史を経て、文明や科学の高度な進歩があっても、命が終わりを迎えた以後の死後の世界のことについては、現世では解き明かされることはない、不明な謎のままの事柄となるといえます。

例え「死後の世界を見てきた」という人がいたとしても、現生に暮らす人々においては、その真偽を確かめる術がない訳であり、信じる者は救われる&エビデンスこそが全ての正義なのだとは思いはしませんが、あまりにも断定的に死後の世界について描かれ・語られることに対しては、腑に堕ちぬ想いから抵抗感が芽生えてしまい、無宗教となっている自分がいたりもします。

信仰心そのものに云々は一切ないのですが、信仰に厚い方々からしたらボクの存在は、不届きな者であろうことは疑う余地がないことでもあります ...



突然の訃報の連絡


20年以上前に同じ組織で働いていたことがある
知人のご家族から訃報の電話連絡が入りました。


天に召されてしまった彼とは、年齢も離れていて、役職やセクションも違っていたため、一緒に何かの仕事を成し遂げたという記憶もなく、いうならばそんなに深い関係性があったとは言えぬと思える間柄でした。

そんな関係でしたので、はじめて彼の奥さんから電話を貰った時は、大変に失礼ながらも直ぐに諸々を想い出すことが出来ず、奥さま自身ともはじめましてという関係だったので、諸々の話しが通じ合うのに若干の時間が必要になってしまったのでした。

電話で語られた用件は、彼本人が逝去をしたとのお知らせだったのですが、最期を迎える前の中治り時期に突然、ボクに「謝ることがある」と言いだし、連絡を取りたいと頼まれたことから、必死に伝手を辿り、何とか直接お話しをする機会を得ることに至ったのだとお話し下さったのでした。

心残りは、その間に彼本人が逝去となってしまったため、本人がいったい何をボクに謝罪したいと思っていたのか、その内容は奥様にも分からず、況やボク自身もいくら過去を想い出してみても、彼に頭を下げて貰うような不義理を受けたような出来事を想い出すことが出来ず終いだったのでした。


そんな状況でしたので、はじめのご連絡を頂戴した時にはお互いに無言になってしまうことも多く、大変に失礼をしてしまったのですが、奥様からは遺品整理と併せて、「何を謝罪したかったのかが分かったら連絡すること・茅ヶ崎からはかなり離れた場所ながら、何かの際には故人に会いに来て欲しいこと」を伝えられ、こちらからも「何か想い出すことがあったらご連絡をさせて頂くこと、機会を得てぜひ一度ご焼香をさせて貰いに伺いたい」旨をお伝えすることになりました。



人間の命の不思議


  「人生の最期」の7日間(臨終間際)前後には、
  不思議なことが起きると言われます。



心臓病による長期の入院の際、看護師の方々にも雑談として色々聞いていたことがありましたが、お会いした奥さまの口からもそんな彼のことが伝えられました ...



中治り現象(欧米:last rally

死を間近にした危篤状態に陥ると、意識が朦朧として、口にいっさい食べ物を入れない状態の人が突然、目をパッチリと開け、「水を飲みたい」「果物が食べたい」etc. などと、急に元気になったように何かを訴え出すことがあります。

容態が一時的に回復する現象はよくあることで「最後の回復」と言われたりもしますが、付き添いや見舞っていた者たちは、そんな姿に触れ「ひょっとしたらこのまま回復して元気に暮らせるのではないか?」、「病気が治って自宅に戻れるのではないか?」などと期待することも少なくありません。

欧米の「 last rally 」の言葉は、砂漠の過酷なレースで、困難を乗り越え、奮い立ちながら突っ走る様子を、人の命が燃え尽きる前の奮い立った状態に重ね合わせているのかと思われますが、日本においては古くから、「ろうそくが燃えつきるときの様子によく似ている」とも言われていました。

医学的には、人が死に近づくと、寿命が尽きようとしている細胞を守ろうとして、身体のあらゆる器官が懸命に努力を始め、副腎皮質や自律神経などから分泌されるアドレナリンやノルアドレナリンというホルモンがエネルギー源になって「脳内麻薬」と呼ばれる微量物質を分泌し(ドーパミン)、「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンや、幸福感をもたらす脳下垂体から分泌されるオキシトシンなどにより、少しでも命が長らえるよう頑張るために起きる現象だと認識されているそうです。



お迎え現象

人がターミナルステージ(末期)の状態に近づくと、中治り現象の他にもう1つ不思議なことが起こりやすくなりますが、これが「お迎え現象」です。


見るから弱弱しくこの世に命が繋がれているような状態の患者さんが急に「娘が見舞いに来た」「孫が手を握ってくれた」などと言って、生気を取り戻したかのように何ともうれしそうな表情を浮かべたりすることがあったり、ベッドで静かな療養生活を送っていたのに、ある日を境に「幻覚や幻聴」により、急に大声を出したり、奇声を発したりするケースもあり、これらを称して「お迎え現象」と呼ばれています。

医療従事者にとっては、こんな現象に触れた時、天国への旅立ちを控えた患者さんへの神様の粋な計らいなのかも知れないと思い、同時にいち早く患者のご家族に連絡を取って、親族に患者さんの死期が近づいていることを知らせなければならないと思うのだそうです。

医学的には、脳が正常に働けなくなると、幻覚や幻聴といった症状が現れることがあり、それが患者さん本人を驚かせ、その不安や恐怖から無意識に近い感覚のなかで声をあげていると判断されているそうです。



記憶のなかで生きている姿

臨終間際の人によく見られるのだというとても
不思議な「中治り現象・お迎え現象」ですが、
個人的には、医学や医療の原因判断の見地など
正直、一切なにも興味はなく、
死にゆく人の心に何が起きているのか
のことに対しての方が、人の命の真理を見つめる
において、より大切なことだと思い至る自分がいます。


彼がボクへの謝罪を口にしたのは、中治り現象・お迎え現象が現れる前だったそうなのですが、そこで詳しい話しを確認出来ぬまま、臨終期に入って意識が戻らず、詳細が分からず仕舞いのままになったのだと、お詫びと共に顛末状況を奥さまがお話ししてくれました。


電話を切った後、想い出を手繰り寄せるように20数年前の手帳を眺め直し、組織を離れる際の全国行脚のような社内の挨拶回り?を実行した時に彼とも会っていることが分かりました。

が、そこでどんな話しを交わしたのかの記憶が蘇ることは一切ありませんでした。

彼との最後の時間を想い出すことは出来ずも、いつも笑っていた彼の元気な表情は直ぐに心に浮かびあがり、後日、そんなことを奥さまにお伝えすると、彼の最期は、苦しみのなかでこの世に別れを告げたというのではなく、最期の瞬間、それまでの痛みから解放されたように緊張感が解かれてホッとしたような優しい笑みを浮かべるようにして旅だったのだと伝えてくれました。

それは、奥さまの中に生き続けている彼そのものと、ボクの中に生き続けている彼の表情がひとつに重なった瞬間でもありました。

彼がボクとの間に気付きを以って謝罪をしたいと思った内容については永遠の謎とはなりましたが、彼との最後と最期がひとつになったことで、逆に彼に許しを請いたいと思ったのでした。




どんな形であっても彼のなかに生きていた自分を知り

「ありがとう」の言葉を手向け、

今は、痛みのない世界でゆっくり安らかに眠り、

空の上から奥さんを見守り続けてな ... と

心で言葉を交わし、

想い出の中にある優しい笑顔に見送られたのでした ...











笑顔の行方を見つめて

all written by careerwing  T.Yoshida@ponyo



素敵な笑顔溢れる1日でありますように!