医者の不養生
Physician, heal yourself.

※本記事は、もう一人の自分に向けて綴った備忘録です。

  

医者の不養生とは ...

医者とは、口では立派に患者に対して養生の大切さを説くものだが、
自分自身の健康には注意せず、不摂生な生活を送り、自らは実行しないことの
例えですが、「Physician, heal yourself.(医師よ、自分の病気を治療しなさい・
自分自身を知れ)」という英語の諺があることを踏まえてみるならば、
医者の不養生というものは、世界各国共通の人の愚であることが伺い知れます。


ここ最近の近況といいますか ...
医者の不養生といってよいものなのか
どうかは何とも分からないのですが、
かなり強い「不安感」に捕らわれていて、
心(精神)と対峙し続ける日々を送っており、
もう完全に ... フゥ~な ... なのです。


仕事の関係もあり、心理学に触れて・学び・無い頭で齧ってしまったがゆえにか、
心模様に対する、心姿の正体・自己内省の見つめ方・問題解決方法 etc.
深層心理上の浅い問題については、自己対話により解決の糸口を見つける対応がしやすくなってはいるのですが、自己認識が届いていない深層心理の深い問題についてとなると出口が見出せずに「う~ん ... 」となってしまい、結果として、医者の不養生に陥ってしまっているように感じています。

いま最大の悩みは、「死に纏わる不安」が原因だと分かっているのですが、4年弱前の心臓手術の後に、パニック障害に近い症状の発症もあり(過呼吸・心悸亢進等)、精神安定剤の服用もして、しばらくは薬の力を借りて過ごしていたのですが、大量に処方されて服用していた薬の害による体調悪化が顕在化し、完全な医者不信から直ぐに転院を行い、全ての薬の見直しと併せて、治療の匙を投げ掛けられた感のある医者との決別を心に決め、科学的根拠など微塵もなく「医者などに頼らず身体は自分で治す」と徹底した食事療法とリハビリを行い、医者からは幾度となく「奇跡的だ」などと言われるも、人工透析一歩手前の状況から完全に抜け出すことが出来、これに伴いパニック障害による不安感に襲われることも完全に少なくなっていたのですが ...

上記の流れを過ごす中でも、開胸術後疼痛症候群によるとされている胸部の痛みは術後よりずっとあり、マグマのように真っ赤に熱した鉄鏝を親の敵とばかりに胸部に押し当てられるような痛みに襲われることが茶飯事となっていて、この痛みに襲われると、逃れられない死への恐怖感が不安として表出してしまう引き金になっている状態なのでした。






不安 & 安心 の心姿とは




不安(anxiety / uneasiness)とは ...

恐怖とも期待ともつかない、何か漠然として気味の悪い心的状態や、良くないことが
起こるのではないかという感覚(予期不安)のことで、心配に思ったり、恐怖を感じたりすることになります。


安心とは ...

気掛かりな事が無く、心が落ち着き安んじることであり、儒教にける「安心立命」を略した言葉で、「天命を知り、心を平安に保つことまたは、その身を天命に任せいつも落ち着いていること」の意味となります。
余談ながら、本来は「あんじん」と読むが、江戸期より「あんしん」と読むようになったのだそうです。


不安の一対にあるものが安心という捉え方も出来ますし、±0の心の状態に対するレベル分類としての捉え方もあるかと思いますが、期待と不安が表裏一体として存在する場合もあることを踏まえると、安心とは、表裏一体の期待と不安のなかで、期待側がより好転的な現実なものとなり、不安要素が少なくなった状態ともいえるのかも知れません。


ここ最近は、精神安定剤を飲まずとも気が狂い出しそうな精神状態に陥ることもなく、この数年間で大分良くなったと思っていても、トラウマのように身体の痛みによって死の不安に引き戻される繰り返しのなかでは、「安心立命」などは望み描く方が間違っているのかも知れず ... 安心などは望まないので、せめて不安が減り・無くなるようになってくれと想い願うのですが ...

医者にも適正な理解をされぬ胸部の痛みを抱えながら、理不尽やら・不条理やら・業やら・自己責任やらと、論理的な納得感を得ようとして藻掻くも、そんなものは襲って来る一度の痛みで容易く吹き飛ばされてしまう意味のないマスターベーションの繰り返しなのでした。



そして ... そんな顛末として ...

己とは、何者なのか ...

自分自身の存在証明となる構成要素だった、
波乗り)・音楽ギター)・家族ネコ
の関わり合いが大きく変化することになりました。


波乗り)は、スポーツというより完全にライフスタイルとなっていましたが、
これを満喫して追い求め続けられる身体状況には非ず、人生から完全に卒業することとなりました。

家族ネコ)は、自分の人生時間の30数余年間もずっと一緒だったのですが、ネコの姿をした4人の愛娘と愛息子が虹の橋を渡ることになり、自分の年齢や見守る命への責任を踏まえて、新しい家族を迎え入れることは、もうしてはならないと思うに至っています。

最後に残った音楽ギター)は、海(波乗り)の卒業の意に近いのですが、開胸術後疼痛症候群の胸部の痛みと、約4㎏の重量のある楽器を長時間肩から下げて演奏することは身体的に無理があり、想い出が詰まり切った全ての楽器を売りに出し、新たに玩具のような1本のエレキギターだけを買い直し、家で遊び程度で弾いていました。

が、完全に原因不明なのですが、弦を抑える左手の人差し指の腱が切れたのか、第一関節の物凄い腫れと痛みで指を曲げられず、それでも大分腫れが引いたので畜生の浅ましさでギターを弾こうとすると、月に吠えるオオカミの如く擬態して叫びが毀れ、人差し指の強度の痛みでどうにもならず ...


海と波乗り、愛娘と愛息子が己の人生から消え去った時から今に至る間の喪失感は、簡単に言葉に出来るようなものでもなく、不条理に嘆き続けるという藻掻きの時を過ごしており、そんないまの自分から、最後に残った自己の存在証明に繋がるギター演奏も人生から消えることになったとしたら ... との不安が過ったことから、またパニック障害に近い症状が出てしまったのでした。

それでも薬害時の苦しみを想うと、精神安定剤を飲む気にはなれず、矛盾してはいるのですが、最後の逃げ道のお守りとして薬を掌に握り締めながら、襲って来る不安感が去るのを自我が壊れぬようにと見つめながら堪え続けています。




人生とは、囚われ続けることなり

... なのだろうか?



ただ生き抜くことのみに拘るのではなく、
生きる・生き抜く目的に拘りを持つがゆえに
これまでの己の人生の存在証明である
波乗り)・音楽ギター)・家族ネコ)」がすべて消えてしまうことに
不安を覚えているのでしょうか?

それとも、これまでの生きる目的がいま無くなったとしても、
新たな生きる・生き抜く目的を見つければ良いのでしょうか?

机上論的には間違いではなくも、そんなに都合よく「それ」が見つかると思っていないがゆえに、己の存在証明が出来ぬ状態にどうなってしまうのかと不安を覚えるのかも知れません。


医者という他人に人生をコントロールされることは否定し、自分の納得を前提にした医者との付き合い方を選択し、匙を投げられた身体も自分自身で疾病を乗り越えてここまで来ましたが、無力感に覆われそうになる気分に対峙して、自我が負けぬようにしている現状は、なんともはや ...



痛みが奪っていく正常な判断


心の痛みは、
知識のロジックで何とか出来るも、
身体の痛みについては、
医者を否定しているなかでは悩ましくもあります。


これは、疾病との向き合いではなく、
老いとの向き合いということなのでしょうか ...


どうすれば、
不安感と身体の痛みが和らぐのかは分かりませんが、


安心立命


天命を知り、心を平安に保ち、
その身を天命に任せいつも落ち着いていることを念じて、
あとは、
時薬に身を委ねてみるしかないのかと覚悟を思うのでした。





This is my life.

行雲流水の如く修羅の道











笑顔の行方を見つめて

all written by careerwing  T.Yoshida@ponyo



素敵な笑顔溢れる1日でありますように!