【 駄 】・だ・ダ・Da とは ...

「駄」とは ...
馬に荷を背負わせて運ぶこと。
また、荷を背負った「馬(荷馬)」のことや、
背負った「荷」のことをいうのだそうだ。

江戸時代の定めを紐解いてみると ...
馬一頭に背負わせられる荷物の重量は、
荷物運び専門の「本馬」が一駄36貫(約135キログラム)、
ひと1人を乗せる「軽尻」が一駄16貫(約60キログラム)を目安として、
この軽尻の重量に換算して、酒3斗5升(約63リットル)入りの樽二つを一駄といい、一つを片馬といったのだそうだ。

そして、これらの荷馬は乗馬に適さない下等な馬とされたために「駄馬」と呼ばれ、ここから転じ「駄とは、値うちの無いもの、つまらないもの」の意を表すようになり、駄目・駄作・駄駄っ子・駄洒落・駄賃・駄菓子などの言葉が、この駄の字を名詞に冠して呼ばれるようになったのだそうだ。

実際に目にする馬の迫力と働き具合からして「駄」とは感じないのだがう~ん ...



大量の駄菓子が届く ...

然る筋からの頼まれ事があり、内容的にも時間的にも特に問題が無かったため協力の着手をするも、当初の想定よりもかなり増えた分量の書類作成を行うことになった。

それでもどうにか完成を行い納品のお渡しをしたのだが、後日、自宅に大きな段ボールの箱が送られてくることになった。

Amazonで買い物をした記憶もなく、何?となっているなかで段ボールを開いてみると懐かしい大量の駄菓子と駄菓子屋さんにある玩具類が詰められていた。

添えられていた手紙によれば、作成した書類はひとりで作成したのではなく仲間内の何名かで作成したものと勘違いされているようで、「皆さんで分けて欲しく、好みも分からずだったことと、関係先に駄菓子を扱っている先があるため、先ずはお礼にと詰め合わせを贈らせてもらった」と綴られていた。

オラやれば出来る子 ...
事業計画の企画書作成位、自分ひとりで作成するっちゅうねん ... との言葉は、誰も耳にすることがなかった言葉と相成った。



駄菓子の歴史

その昔の江戸時代、
白砂糖は輸入品で高価で貴重な食材であり、
これで作られる菓子は「上菓子」と呼ばれ、
茶席や贈答にも使われる高級菓子だった。

これに対し、主に子供向けに製造販売される、
麦・ひえ・あわ・豆・くず米などに飴や
国産の安価な黒砂糖を使用して作られた
安価で大衆的な菓子を「雑菓子」と言い、
これが駄菓子の起源とされており、
発祥の地は大阪となるのだそうだ。

さらにその後、19世紀の京坂で初めて
駄菓子」の名称が登場することとなり、
これは、雑穀や水飴などを材料に使って作り上げ、庶民の間食として食べられていたのと、金額の安さもあり「一文菓子(現代で銭1文は12円くらい / 江戸の末期頃まで、そば1杯15文)」と呼ばれていたそうで、全国の郷土菓子のなかにはこれらの変遷を通じて、各地域に定着したものもあるのだそうだ。

1800年代に入ると砂糖の国産化が始るが、白砂糖についてはまだ制限されており、庶民の食べるお菓子には黒砂糖のみが許されており、麦こがし・おこし・カルメ焼きなどが黒砂糖を使った代表的なお菓子となり、今でいう懐かしの「昔菓子」がこれにあたるのだそうだ。


明治末期から昭和初期に向け、
台湾やサイパンなどから砂糖が大量に入って
くるようになり、駄菓子の種類も増えていくが、
昭和16年(1941)に太平洋戦争がはじまると
食糧不足により食品の統制が強化され、
駄菓子も作られなくなった。

昭和24年(1949年)、砂糖の統制が撤廃され、キャラメルなどの自由販売も認められるようになると、キャラメルを作る零細企業が多く誕生し、その供給に合わせるように駄菓子屋が増えていき、駄菓子の黄金期を迎えることとなる。

昭和22年~24年頃の第一次ベビーブームとともに子供の数が一気に増え、駄菓子が発展していき、駄菓子の最盛期を迎えることとなり、この頃に販売された商品は、現在も変わらぬ人気で販売され続けているのだそうだ。


きなこ棒、あんこ玉、きびだんご、ふ菓子、黒棒、
あんず棒、ひも飴、さくら大根、スモモ付け、
ソースせんべい、梅ジャムせんべい、金平糖、
カルメ焼き、ボンタンアメ、チョコレート、
トンガリ、珍味、ラムネ、ヨーグル、ガム etc.

懐かしい駄菓子は、色々あるが、
これに加えて駄菓子屋さんでは、
くじ当て、めんこ、カタヌキ、ゴム飛行機、ピストル、リリアン、紙石けんなどの玩具や何種類ものゲームなどもあり、駄菓子屋と言えば学校が終わった放課後の子供たちの社交場でもあった。


余談ながら ... 明治時代を代表する作家である樋口一葉さんが、東京の台東区で日用雑貨を取り扱う商売を始める際に、日用品雑貨と一緒に菓子類、玩具類、豆類、煎餅餅類、紅白四色金平糖、めんこ類、人形類などの駄菓子屋さんの商品も置いていて、代表作「たけくらべ」の中に出てくる駄菓子屋「筆や」のモデルになったといわれてもいるのだそうだ。



駄菓子を持ったサンタクロース

かなり大きな段ボールに詰め込まれた大量の
懐かしい駄菓子にぴょこぴょこカエルや
スーパーボール、ゴム製のヘビ、銀玉鉄砲、
リリアンなどなど、いたずら心をくすぐる
アイテムが一杯に詰まっていて、
どう考えてもひとりで楽しめる量ではないため、
箱ごと車に乗せ、子供がいる後輩の家へと
季節外れのサンタクロースよろしく、
子供たちへのプレゼントを配り捲ったのだった。

が、嬉しい誤算は、手渡そうと思っていた子供たちより、「懐かしー!」と表情を変えてあれこれと手にする親たる大人どもの方が子供たち以上に笑顔が溢れていたことだった。


昔から子供たちが魅了され続ける駄菓子屋さんのお菓子や玩具には、なぜこんなにも惹かれるのだろうか?

あそこやそこの高級菓子を食べた経験はあるも、笑顔を呼び起こしてくれるのは「駄」が付く菓子である不思議 ...

いまではジジーと言われる人たちも一瞬にして子供の表情に戻る駄菓子の力。


しかし、これまでに仕事関係で心づけを頂戴することは幾度となくあったが、駄菓子を頂くことははじめてで、駄菓子問屋の関係先が例えあったにしてもなぜなんだろうと考えていたのだが、スーツ姿での出張の際、ポケットからガラスで出来た「おはじき」がふたつ出て来たことと、喋り過ぎで喉がガラガラだった時、サイコロキャラメルを買って、パッケージを大切に折り畳み、ポケットに仕舞い込んだことから、駄菓子(&駄菓子屋)好きと思われてのことだったのかも知れぬと察したのだった ...



茅ヶ崎の夜、サンタクロースに擬態して、トナカイ替わりの車を運転しながら、
アントニオ猪木さんの闘魂儀式である「行くぞー! 1、2、3、ダー!」の
「ダー!」は「駄ー!」なのかも知れないと、子供家庭巡りをしている車の中で想い続けていたのだ。

もちろん口のなかには元気が出るように「甘くて・酸っぱくて・クリーミーなヨーグル」を舐めながら、駄の力に思いを馳せていたのだ。










笑顔の行方を見つめて

all written by careerwing  T.Yoshida@ponyo



素敵な笑顔溢れる1日でありますように!