君は走馬灯を見たことがあるかい?!


走馬灯(走馬燈)とは、灯籠の一種で「回り灯籠」とも呼ばれることがある。

江戸の中期に夏の夜の娯楽として登場したらしく、俳諧では夏の季語ともなり、現在でもお盆の際に飾る風習を持つ地域があるそうだ。

過去を振り返れば、日本全国津々浦々を歩いたのに実際に走馬灯を見たことが無い。
ボクが見た走馬灯は、それまで過ごした人生のさまざまな想い出がフラッシュバックし、いまわの際に見るという例のモノだった。

そして、毎度々トホホなのは、去年の入院の際、タイトロープのをとぼとぼと綱渡りしている時に3度も走馬灯を見たことなのだ。

これだけなら人によっては「なかなか出来ない経験を3度もしてるなんてまぁ素敵!」などと言われるのかもしれない。

所詮他人など無責任極まりない存在なのである。


想い出の姿


はじめてのデート。
はじめてのキス。
はじめてのセックス。

すべて眩しく煌めくほどの輝きを持った大切な想い出だ。

音楽や波乗りにのめり込んだのは、この煌めきに近い、瑞々しい新鮮な驚きと喜びが常に感じることが出来たせいでだと思ったりもする。

はじめての波乗り。
はじめてのハワイ。
はじめての大波。

「私と波乗りとどっちが良いの?」と尋ねられ、海と波乗りを選んだ青い頃を懐かしくも想い出す。 ハワイの空と海よりも蒼かったんだと思う。

はじめてのロック。
はじめての3コード。
はじめてのブルーノート。

ギターを眺めながら、弾き手によって奏でられる音楽に歴然とした違いがあることに不思議な魅力を感じて、弾いては眺めを飽きることなく繰り返して今がある。

サイレントの短編映画の如く


それまで過ごした人生のさまざまな想い出がフラッシュバックして、サイレントの短編映画のように流れていくなら、大好きだったことも感動したことも一杯あるのだから、それらが当然に蘇って出て来るのだろうと思っていた。

仲間・女性・海・波乗り・音楽・仕事・子供たち

ボクは、もう一人の自分と走馬灯を眺めながら、想い返せば赤面の日々ながら、反省はあれど後悔はないと語り合いつつ、流れていく映像は、確かに経験済みの事ながら、なんの感慨も生まれぬような只の日常の場面が浮かんで消えるだけだったのだ。

走馬灯のサイレントの短編映画を眺めながら「ムン?」となっていた。

それゆえに現世に残されたのだろうか。
3度も?

最期の時に


あれから1年の月日が流れた。
つい先日まで、心臓ではなく、腎臓と肝臓を患い2週間の入院をしていた。
この影響で立つことが出来ず、今は松葉杖を用いての生活となっている。

痛みに耐え続けることは前回と同じだったが、走馬灯を見ることは1度も無かった。

大部屋では、この世のモノとは思えぬ阿鼻叫喚の声が24時間聞こえて来る劣悪な環境だったのに、なぜだか嫌だとの想いは浮かばなかった。
そして、退院間際には他の病室が空き、茅ヶ崎の山側ではあっても窓際の場所に移ることが出来た。

朝から夜まで外を見続けるボクに看護師と医者が「大丈夫か?」と心底思ったらしいが、ボクは窓から見える稜線を見つめながら、ハワイのダイヤモンドヘッドを想い出し、空気も水も気温も太陽も花も人々も街も憧れを感じ続けた地で過ごした懐かしい日々を想い出し続けていた。

そしてハワイに暮らすひとりのソウルメイトのような心の恋人のような憧れの人の存在に想いを馳せ、空想の旅を続けていた。
理由があり、しばらく連絡はしていなかったのに、退院の日にハワイの病院からだとしてレスが届いた。 ボクの中にある最後の純粋な涙が溢れて零れ落ちた。


現世で見る走馬灯とは、夢や憧れが映し出してくれる夢想の世界なのかも知れないと思った。

最期の極にもまた走馬灯を見るのだろうか。
人並み以上に見てるからチミはもう終了ねと閻魔の手下の鬼に言われてしまうのだろうか。

最期に愛したモノ達の想い出を見つめることが出来る人生は、素敵な幕引きなのだと思い至る。 どうすればそれが適うのか・・・またひとつ謎に包まれてしまったのだ。









笑顔の行方を見つめて

all written by  Career wing  T.Yoshida@ponyo




素敵な笑顔溢れる1日でありますように!