その男は老いていた。


ひとりの男が自身の背丈の半分ほどの高さまで、大きく前かがみになり、杖を付きながら私の目の前をゆっくりと通り過ぎた。


バランスを取りながら、必死の思いで自分の身体を動かしているという風に感じ取れ、それを私は、気に留めながら様子を伺っていた。


大きく前かがみになった姿勢では、陳列棚の上方は視界にはいらず、商品を探すことも困難だろうし、

レジの高さは壁の様な存在であるだろう。


それはコンビニエンスストアでの、日常のひとこまだったのだが、その老人はあきらかに異質な存在として、店内に存在していた。


その空間が、若者や学生などで占められていたから、対比して異質な存在として捉えてしまう自分がそこにあったのかもしれない。


異質にみえてしまう感覚は異常なのか。そう見えてしまう空間設計だからなのかもしれない。

そんなことをふと思った。


その老人は、コンビニエンスストアまでセニアカーで移動し、駐車場からは杖を用いて店内までの移動を強いられていた。


「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」という一瞬心地よく聞こえる言葉。


そんなものがこの空間のどこに介在しているのか。


この国のほんの少し未来に「靄」がかかって見えた。


懸案を推進させるがための改造内閣。

防衛大臣はなんと民間人である。

改造内閣のニュースを観て、文芸春秋5月号 

富岡幸雄氏の論文が思い浮かんだ。



20th Century Boyのブログ




「税金を払っていない大企業リスト」

その中で氏は以下3つの提言を掲げている。

 
提案1 大企業の内部留保金を復興債に

提案2 公開大企業の「受取配当金」の廃止を

提案3 個人所得税制の見直し


共産主義のニオイも感じるが、論文は至極全うである。


増税ありきの前にもう一歩踏みとどまり、やるべきことに目を向けていただきい。

国家の防衛大臣は捨て駒ではいけない。

彼は政治家ではない。

防衛大臣のコメントも非常に自信のなさが伺える内容であった。

背筋の寒い想いがする。


私ができる事と言えば、キーボードを叩き付けながらブログで文字を羅列することくらいか。

もどかしさばかりが募る。


野田首相の眼の奥に得体の知れない何かが透けて見えた。

それは、ほくそ笑む顔だ。

私には「それ」がはっきりと伺えた。










おそらく現状の交通システムはある種限界を超えてしまっている。


表題の件に関して言えば、クルマの性能でもない、ドライバーだけの問題でもなく、システムそのものに問題があると考える。


クルマの誕生により、ほとんどの人々が「移動の自由」を手に入れた。


「移動の自由」という言葉は、ドライバーから見た場合、歩行者(他者)との共存の上で成り立つ。


運転する人間は、クルマという名のシールドを纏う。
走行を始めると同時に、他者(歩行者)への配慮は薄れ、威圧感を与える鉄のカタマリになる。
個が優先され、他者は障害になる(される)。


歩道にいくら防護するための策をとっても、歩道の幅を拡幅しても、システムが根本的に
変革しなければ、表題の様な事故は、今後も繰り返しニュースで報じられることになる。
何の解決も無く当たり前のように。


ここでいう「システム」とは、例えば以下の様なことである。


同一の道路にトレーラー、軽自動車、二輪車など当たり前に混在している。
そのすぐ脇に歩道がある。 というような事だ。


それぞれ圧倒的に違うのは質量である。トレーラーと二輪車が衝突すれば、その結果は明らかだ。
クルマ対ひとであれば、なおさらである。


クルマにはエアバッグやシートベルトがあり乗員を保護できる「装置」がある。
歩行者には何も無い。生身である。


では、歩行者にも身体を保護する為のエアバッグのような「装置」が必要なのか。
ナンセンスではあるが、登校時の生徒にはそのような窮屈なモノが冗談ではなく
必要になるかもしれない。それでは本末転倒になってしまう。


たとえば、車道と歩道のレベルに1m程の落差をつけ、歩道側を自動車が走行するレベルより高い位置に配する設計を行えば、後から施行されるガードレール等の防護策よりもはるかに有効ではないか。


無駄なモノに税金を投入するのではなく、実験的に、それぞれの移動手段にふさわしい道路を計画した共存できる都市を計画し、実験を行うというのも一考ではないだろうか。


そのようなシステムを創造して結果が出れば、海外にそのシステム(思想)を売ることも可能である。


今、私たちができる事は、何なのか。


「クルマ」という「シールド」を人は纏うと、外と内に空間を隔ててしまう。
音は遮断され、子供の声も聞こえてこない。


ドライバーから外を見るとヴァーチャルな世界になってしまう危険性を伴っているのである。


明日は「私」や「あなた」が加害者にもなり得るし、その反対もあるということを
あらためて自覚しなければならない。